のだめカンタービレ正月版:NK
小説も読まなければ、映画も観てない・・・。
のだめ、ですが、欧州ロケだったこともあり、半分TVで観ました。プラハが出てましたが、行った事ないです。野田っていうのはたぶんリアルのだめ(漫画のモデルとなった音大生)の本名でしょうね。福岡に多い名前です。大川出身という設定なのですが、設定ではなくて本当でしょう。
クラシック音楽を聴くことが少ないわけですが、こうやってドラマをつけると見やすいんでしょうか、大ヒットの理由として。音楽というのは本来(クラシックでは)絶対的な美であって、説明とかドラマがないと売れないのは良くないというスタートラインですよね。典型的には、ベートーベンの交響曲の「田園」とか「運命」というのはあだ名であって本来の名前ではないし、特定のストーリーではないです。ピーターと狼のように、ストーリーと音楽をあわせる企画はあるのですが、オペラとかを別にすると、ドラマで音楽を作るのは主流ではない。音楽はそういうものから独立したくて仕方ないという歴史を(クラシックは)たどってきたのでしょう。
ところが、そういう音楽は聞き手を狭めるわけですね。絶対音楽は聴きにくい。自分の感情を絶対的な目で見る事ができないと鑑賞できないからで、哲学的作業になってしまう。眠くなる・・・。5番というよりも、「田園風景を思い起こす」とかで落ち着いてしまいたいわけですね。田園だというのはもともとベートーベン自身の言葉などから周囲が作ったストーリー(たいがい出版社?)ですよね。そして、絶対音楽を演奏する人は、作曲の背景や作曲者の人間性を調べる作業を積み重ねることで音楽を自分の感性の中に再構築し、その構築の出来を競ってきたといえないこともない。千秋自身がやっていることもおおむねそういうことですよね。
だけど、のだめはそういうのではなくて、そもそもその音楽を考える人たちを描くというドラマにしたわけです。千秋は哲学的に突き詰めて考えるタイプで、そこがフランス人のライバル(名前忘れたけどバラの花が飛び交うやつ)と違う。違うけれど同じ曲を演奏して競う。その流れでコンクール課題曲を聴くと初めて絶対音楽の一部に触れることができる。
一方でのだめが叫ぶように、音楽は勉強ではない、楽しくしたいのだ、というのも重要なメッセージではある。本物ののだめは、大川に帰ってピアノの先生になったらしい。そうだろうなぁ・・・。ちなみにドラマも漫画も福岡弁(厳密には大川弁)が非常に嘘ばっかりですが。音楽を演奏して「楽しむ」ことは、作曲者との(演奏者としての)同調をかなりの程度捨てる代わり、自分が好き勝手にやればよい。人に聞かせることとは違う。コンセルバトワールでのだめが先生に説教されたように、「なぜ学ぶのか」つまりは人に聞かせるのだろう、プロになるのだろう、ということがフランスに行くのだめと大川に帰るリアルのだめの違いである。原作者はそういうことがどうもちゃんと分かっているらしいので、うまいドラマをつくれるのですね。聞かせる音楽家になるために、のだめはリサイタルをやるわけです。
音楽を巡る人たちには確実にドラマがある。それにかこつけてCDも流行る。「のだめCD」だけ聞くと分かるように、ドラマのシーンとしてのベートーベンの7番がある。原作ではブラームスだったけど。ベートーベンの7番は(合唱なしの?)最高傑作といわれているけど、例えばカラヤンが指揮すれば純粋に7番なわけです。のだめのCDの7番は、のだめのドラマのサウンドトラックでしかない。このあたりに違和感が残ります。
音楽にドラマがあると見やすい、つまりは、音楽が売れるためにはドラマをつけてやらないといけない。多くのポピュラーがドラマの主題歌として流行るわけで、これも似ていますね。のだめでは、ドラマは作曲者を描くのではなく、その解釈者を描く。ベートーベン映画を見ても7番の価値が上がるとは思えないけど、アマデウスを見ても41番の理解が深まるということではないのだけど、理解の深まりがありそうな気がするし、理解というものが存在することに気付くという効能はある。
まあ、通常の人間にとって、絶対的な美なんて別に必要ではなく、消費する美があればいいんでしょうね。つまり、自分の感覚にあうものとか。例えば自分の思い出につながる演歌とかのほうが大事であって、純粋にこの音の並びをこのようなソナタ形式で聴衆に伝えるなんていうクラシックの世界は、所詮クラシックファンの更に一部しか消費しないものでしょう。ただ、クラシックが古典と呼ばれるほど長らく多くの人に支持されてきたことは重要で、のだめもそこから生まれたわけですが・・・。プロの演奏家という職種に独特の仕事として、音楽が残っており、我々消費者は消費する立場でしかないのでしょうか。
のだめはあれだけのギャグを連発しながらいろいろと深いことも伝えていますよね。千秋にとっての音楽とのだめにとっての音楽は違うのだけど、それぞれが歩み寄りつつある。のだめは聴衆を意識し始めた。それがきらきら星変奏曲として、自分の好きなものとのクロスオーバーとして出てきた。技術ではない(リストの超絶技巧曲を弾ける人は他にもいる、というメッセージでした)。きらきら星は幼稚に見えるのだが「良い気持ち」を聴衆と共有する媒体としてて適切だったという意味での選曲なんでしょうかね。
アマチュアでも音楽は聞き手を必要とします。そこでアマチュアって何を伝えるのかな、ということだけが残るのですね。ひとつは、そんないい曲があったんだ、って知ってもらうとうれしいこともある。その程度に音楽を伝えるのは小学生でもできるけど、大事なことですね。あとは、やっている本人がうれしいということです。つまり聞き手は強制されているか(サークル同士で動員かけるとか子供の発表会に行くとか)、個人的な知り合いでその人とのかかわりで音楽をとらえるか(仕事忙しい割りに練習していてうまいじゃんとか)なわけですね。音楽の追求はないんでしょう・・・。
(NK)
1 Comments:
唐突に長いのが来たね。どうかしたの?
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