「シャッターアイランド」を観た(NK)
精神分析の生み出した一種の知見にあれこれ意味を付け加えた点で秀逸だと思う。ロボトミー手術などへの人道的反対を強調するように見えて実はそうでもない。善悪、正邪など実はクリアカットできないのだということが重要だ。なぜ人は暴力を振るうのか。暴力で解決しようとする人は邪だといいながら、戦争や警察力や精神病院にはそれが許されるのか。人が苦しみから逃れるために悪や暴力を行うことを人は暴力で抑える。いや実は人が「楽になりたい」と思うとき、暴力を使ってそれを達成させてあげようとすることもありうる。楽になるためにロボトミーを否定することができるのか。軽薄な知識人への批判とすら読み取ることができる。
このような趣旨だったとすれば、それをこれだけのサスペンス映画に仕上げたのはすばらしい。狂ったほうも「正常」なほうも、治療するほうもされるほうも、みんな相対的な位置を保持しているにすぎない。なんでも「トラウマ」で説明してすむはずがない。個々人の事情は複合的、立体的で、線形ではない。生きるのが苦しい事情はさまざまだ。弱いか強いかも人によって違う。一律の治療法があるとはいえないのは当然だ。
戦争という暴力の集中はある意味最近まで当然視されてきた。警察と軍隊への暴力の集中が近代国家を作ったが、国と国とが軍隊を使って暴力を振るうことを抑える発想は、国際連盟までなかったからだ。虐殺も軍隊を通じてさまざまに行われ、ナチスだけではないだろう。境界的な事件はたくさんあったに違いない。
個々人においても正邪や正常異常の境目にさまざまなケースがある。ショックが大きく生きにくい人間が楽になるためにロボトミーを自分が選んだとしたらどうなのか。強く生きることにいまさら価値があるだろうか。がんばらないほうが正しいことはないのか。逆にどんなときにはがんばったほうがいいのか。結果も限界も前もって分からないではないか。答えはないにしても、少なくともこの映画は「白黒つかない」ところに真実があることは教えてくれる。
このような趣旨だったとすれば、それをこれだけのサスペンス映画に仕上げたのはすばらしい。狂ったほうも「正常」なほうも、治療するほうもされるほうも、みんな相対的な位置を保持しているにすぎない。なんでも「トラウマ」で説明してすむはずがない。個々人の事情は複合的、立体的で、線形ではない。生きるのが苦しい事情はさまざまだ。弱いか強いかも人によって違う。一律の治療法があるとはいえないのは当然だ。
戦争という暴力の集中はある意味最近まで当然視されてきた。警察と軍隊への暴力の集中が近代国家を作ったが、国と国とが軍隊を使って暴力を振るうことを抑える発想は、国際連盟までなかったからだ。虐殺も軍隊を通じてさまざまに行われ、ナチスだけではないだろう。境界的な事件はたくさんあったに違いない。
個々人においても正邪や正常異常の境目にさまざまなケースがある。ショックが大きく生きにくい人間が楽になるためにロボトミーを自分が選んだとしたらどうなのか。強く生きることにいまさら価値があるだろうか。がんばらないほうが正しいことはないのか。逆にどんなときにはがんばったほうがいいのか。結果も限界も前もって分からないではないか。答えはないにしても、少なくともこの映画は「白黒つかない」ところに真実があることは教えてくれる。
Labels: 映画
2 Comments:
人間としての理性と動物としての本能。生きること自体が、殺生から免れないという点で暴力的かことかも。本能の在りように対し、よりよい、納得できる理屈付けが必要で、それを求め続けることが理性の側面ということでしょうか。
最近サンデルの倫理学がはやっていますが、人間は共同体意識とか確かにまた妙なものにも箍をはめられていたりするんですね。自由とは何か、本能は自由の結果なのか自由でない結果なのか。(NK)
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