ナイロビの蜂、を観た(NK)
アフリカ・オセアニアの映画を観る宿題の一環。もともと原作(集英社文庫、上・下)があり、舞台はケニア。イギリス人の話で「Constant Gardener」という題名だった。主人公は外交官だが植物を愛するが世情にあまり興味を持たない官僚(いつもガーデナー)。しかしそこに安心感を感じる正義感の女を妻にして、ケニア高等弁務官事務所に赴任。妻が不正を暴く中で殺害され、自分も妻が死んだ理由を求める中で、自分が妻が自分の家のような存在であったことに気づかされ、妻がいかに自分を守ってくれていたかを知ることになり、自ら死地に向かう。
フェルナンド・メイレレス(ブラジル人でシティ・オブ・ゴッドの監督)は、サスペンスとはいえハリウッドではとても採用されえないストーリーをすばらしい映像で映し出してくれる。やはり映画は絵が良いのが一番だ。
ケニアのビビッドな空気の色とロンドンのグレイな空気との比較。赤い大地、青い湖、その上を飛ぶ白い飛行機。動かない自然と動く人工物、あるいは動かない大地と空を翔けるフラミンゴの群れ。といった絵の美しさは、映画の筋書きに寄り添いながら、すさまじい力で迫ってくる。一方で、地面をはいつくばって歩く人間を追いかけるのは、ハンドカメラ。ホームビデオのようにぶれまくりながら走る人を追いかける。あるいは列車から見える橋や建物。飛び去りながらも暗い全体像を象徴する。
本当の「ワル」などいない。小市民的な小さい愛国心や嫉妬や投げやりな生き方などが積み重なるところに、大きな悪がいつのまにか存在する。会社というかたちをとれば、その組織力はいつのまにか大きな暴力の中心とすらなりうる。アフリカでひそかに人体実験を行う薬品会社は少々やくざなおやじに率いられているが、英国政府とうまく結んでおり、表面的にはアフリカで無料で薬を配ってもいる。それを暴こうとする妻が殺されるのだが、明示的に殺しを指示したものがいるとも言えない。官僚の悪も暴かれはするが、それもそれほど大きな悪意の結果とも言えない。
主人公は一方でそういう事実にも気づかざるを得ない。妻を殺したのは殺し屋であり誰がそうさせたかわからないでもないのだが、関わった全員を殺したいということにもならず(ひとりひとりの参加は小さいからだ)、ただひたすら自分の中に戻らざるを得ない。ロンドンでのめぐり合いや楽しかった思い出やその後の証言や証拠から分かる妻の自分への気持ちなどが、結局一番大事であったことが分かる。そしてそれが帰ってこないということだけが大きな事実として残る。そこには絶望しかなかった。
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