だってBだから

へんなおじさんたちのブログ。

Monday, February 25, 2008

マゴリアムおじさんの不思議なおもちゃ屋(NK)

映画としてはディズニー的子供向きを意識したものなんだろうが、最近気になる「事業価値」についての話題があった。つまりおじさんが死んで店を継がねばならないと指名された娘(単にアルバイト)が、自信がなくて店を売りに出してしまうところだ。店は予想以上に高くで売れることが分かる(価格提示)のだが、その理由は場所の無駄遣い(高いビルの狭間にあり日本風に言えば容積率が余っている?)。効率が低いおもちゃ屋であることは、担当会計士も分かっている。その会計士は、娘に価格提示について意見を求められて「会計士としては良いオファーで受け入れるべきと思うが、友達として売って欲しくない」と答える。これはファイナンス的に「Private benefit」を追求する経営者の姿を描いている。まさに経済合理性を捨てて「仁義(友や客の子供やおもちゃそのものへの気持ち)を貫け」と主張する映画である。もちろんこのオファーを断るために、娘が自信を取り戻す(魔法が使えるようになる、あるいは「信じる」)という筋があるわけだが、魔法が使えるので経済合理性を捨ててよいというのが、Kinki Bootsより出来が悪い部分だった(リアリティのできを競っていないことを知っているが)。Kinki Bootsは似た話だが結局不動産として再開発する以上の価値を生み出す可能性(確かではないが)を感じさせる靴屋再生ストーリーだったのだが。つまりこの場合の魔法は、おもちゃ屋の客と経営者のPrivate benefitに使われ、GDPには貢献しなかった。

もっとも、GDPに貢献しなければ悪という意味ではない。このおもちゃ屋はビルそのものも生き物なので、仕方ないのだ。生き物は大切にしなければ。立て直すのは悪だという気はする。いや、裏返せば、そんな魔法に満ちた場所くらいしか生き残れないともいえる。おもちゃ屋からわくわく感がなくなり、膨大な量の品物が積み上げられただけのスーパーとなってしまったことが問題だ。「急にいわなければ驚けないじゃないか」といったおじさんの考え方が通用しない合理的世界では、おもちゃなど売れないはずではなかったのか。魔法でもあればまあ生き残ってもいいが、そうでなければシャッター通りのおもちゃ屋同様店主の寿命と共に幕を閉じるのだ。そういえば、そうだ。そういう寂しさを忘れていた。その点を思い出させるという意味で、出来は良かったのかもしれない。子供が欲しいものはおもちゃそのものではない、とすれば、社会や教育や環境などすべてを善の観点から見直していかねばならない、と主張できる。おもちゃは魔法のようだから価値があるのだ。商品の価値は、魔法として売ることで上がる。金銭的な価値は同じでも意味は違う、そういいたかったとすれば、議論は一段階高まる。プチプチの上で踊るとプチプチ音がして面白いとか、そういうことに価値があり、それを信じることに価値がある。それを与えられる仕組みが偶然店であるとすれば、それには価値がある。ただ、高値で買おうとしためがねのおばさんにも意外に夢がある。このビルを大きくしてたくさんのテナントが入り、快適に仕事をする・・・。それも悪くないけどね。そのあたりの地価上昇の歯止めとなるかも知れず、より多くの給与が他の会社の従業員に入ることを促すのかもしれない。そういう発想に夢がないというのもまた夢がない。幸せはいろいろあるが、中所得者としては、所得は多いほど夢はある。子度にもおもちゃも買ってやれる・・・。いやはや、何が善だか分からない。いや、善悪も他の価値観もそうだが、二者択一ではない。さらに言えば、中庸がもっとも善かもしれない。西田幾多郎の例示で言えば粗野で乱暴な状態と臆病との間に「勇気」がある、というか、そんな感じ。どっちもうまく行くにはCSRか?いやそんな気はしないが。

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