川端康成「伊豆の踊り子」を読んだ(NK)
伊豆の踊り子がどうして人気小説となり(1926年)戦後も映画やドラマになったのか理解しがたい。一種の勘違いだったのだろう。文庫版の解説などによれば、早くに孤児になった川端が淡い恋と旅情の中で人の温かさや自分が受け容れられる感情を取り戻す話らしい。そうだとすると、これまでの映画やドラマはほとんど原作を換骨奪胎したといえるし、さらに人気となった当時もたぶん勘違いに基づいて清純な恋愛小説として読まれたといえる。
小説を読むと、川端の興味は本質的には踊り子本人にはないようだ。確かに最初はちょっと気になって追いかけたし、その後相手も多少気にする面もある。だが、主人公は入浴を遠くから見たとき子どもだったことに気づくのであり、踊り子もその後それほど気にしていないとすらいえる。しかし、庶民的に興味を持てる部分は、踊り子と主人公が淡い恋であったはず、という思い込みに基づいて、ロードムービー的に伊豆を旅することなのだ。しかし二人の別れにそんな恋の気配は無く(どちらかというと親戚の親愛のようなものが出ている)、伊豆の旅はそれほど詳細に書かれているとも言いがたい。
この小説で描かれているのは、身分や差別である。踊り子たちは差別され(例えば村に入るなという看板だったり、茶屋のばあさんも表向きはそうでもないが裏では悪く言ったりする)、自分の立場はその反対にあり、芸人にお金をひねってあげたりもする。身なりもいいし、20歳の学生にもかかわらず贅沢に旅行をしている。ここで主人公はそういう差別の対象者が意外に本人たちはそれほど気にもせずある意味軽々と暮らしていることに気づく。
もうひとつのポイントは、主人公がこの踊り子一座に受け容れられることである。もちろん主人公が避けたり嫌な顔をしたりしていないことで受け容れられたのだが、縁や出会いを大事にする旅芸人が主人公を大島に誘う。主人公はそれほどこの出会いそのものに固執しない。だからこそ下田の港で預かる東京に向かう年寄りに気持ちが移る。そこには新たな信頼や受け入れがある。このエピソードは、この小説の主題が特定の踊り子などではないと主張している。
この小説そのものの中にはそれほど解説的な文章は無いのだが、確かに主人公が伊豆を歩いて無目的に旅するという設定で、ある程度自分の存在そのものに疑いを持つ主人公を想定するべきかもしれない。その上で考えてみると、この主人公はもともと差別されている旅芸人に独特のシンパシーを持っている。同じように人生に違和感を持っているはずだ、と思ったのかもしれない。踊り子に特に興味を持ったのも、見かけもあるだろうが、実はその違和感が一番強く見えたのかもしれない。
ところが実際に出会ってみればそこには男と女、大人と子どもあるいは大人になりかけの連中がいて、それなりにやりたいことや望みを持ち、大変であってもいろいろ楽しみを持ちながら暮らしている。そして新たに知り合ったものにもなんら違和感を持たずに接しているように感じる。自分と同じ階層に属する人間ではなくとも問題ではないのだ、受け容れられるのだ、人は人を受け容れるのだと彼は感じる。
次々と親や親族を失い「孤児」というレッテルを貼られたと感じた川端は、そのよく言えば高い感受性で、悪く言えば神経質にも、人生への違和感を覚えたのかもしれない(孤児根性と呼んだようだ)。いや他にもいろいろ理由があっていやになったのかもしれない。だが、同様の違和感を持ってもおかしくない踊り子との出会いが、自分の人生に対する感情(違和感)が「確かに存在する自己自身」の感触などではなく、一種の神経質な思い込みでしかない、硬い実在ではないという理解につながった。
そう考えてみると、川端本人にとってこの出会いが小説にするに値するほど大きな事件であったと理解できる。その後下田から老婆を適切に東京に送り、その後も人と自然につきあうことで、自分の持つ違和感を癒し、生きることを理解したということかもしれない。
それにしても小説をはじめて読んだし映画も観ていなかったので、伊豆の踊り子について大変な先入観を持っていたのだと分かった。それがこの読書の最大の成果かもしれない。
小説を読むと、川端の興味は本質的には踊り子本人にはないようだ。確かに最初はちょっと気になって追いかけたし、その後相手も多少気にする面もある。だが、主人公は入浴を遠くから見たとき子どもだったことに気づくのであり、踊り子もその後それほど気にしていないとすらいえる。しかし、庶民的に興味を持てる部分は、踊り子と主人公が淡い恋であったはず、という思い込みに基づいて、ロードムービー的に伊豆を旅することなのだ。しかし二人の別れにそんな恋の気配は無く(どちらかというと親戚の親愛のようなものが出ている)、伊豆の旅はそれほど詳細に書かれているとも言いがたい。
この小説で描かれているのは、身分や差別である。踊り子たちは差別され(例えば村に入るなという看板だったり、茶屋のばあさんも表向きはそうでもないが裏では悪く言ったりする)、自分の立場はその反対にあり、芸人にお金をひねってあげたりもする。身なりもいいし、20歳の学生にもかかわらず贅沢に旅行をしている。ここで主人公はそういう差別の対象者が意外に本人たちはそれほど気にもせずある意味軽々と暮らしていることに気づく。
もうひとつのポイントは、主人公がこの踊り子一座に受け容れられることである。もちろん主人公が避けたり嫌な顔をしたりしていないことで受け容れられたのだが、縁や出会いを大事にする旅芸人が主人公を大島に誘う。主人公はそれほどこの出会いそのものに固執しない。だからこそ下田の港で預かる東京に向かう年寄りに気持ちが移る。そこには新たな信頼や受け入れがある。このエピソードは、この小説の主題が特定の踊り子などではないと主張している。
この小説そのものの中にはそれほど解説的な文章は無いのだが、確かに主人公が伊豆を歩いて無目的に旅するという設定で、ある程度自分の存在そのものに疑いを持つ主人公を想定するべきかもしれない。その上で考えてみると、この主人公はもともと差別されている旅芸人に独特のシンパシーを持っている。同じように人生に違和感を持っているはずだ、と思ったのかもしれない。踊り子に特に興味を持ったのも、見かけもあるだろうが、実はその違和感が一番強く見えたのかもしれない。
ところが実際に出会ってみればそこには男と女、大人と子どもあるいは大人になりかけの連中がいて、それなりにやりたいことや望みを持ち、大変であってもいろいろ楽しみを持ちながら暮らしている。そして新たに知り合ったものにもなんら違和感を持たずに接しているように感じる。自分と同じ階層に属する人間ではなくとも問題ではないのだ、受け容れられるのだ、人は人を受け容れるのだと彼は感じる。
次々と親や親族を失い「孤児」というレッテルを貼られたと感じた川端は、そのよく言えば高い感受性で、悪く言えば神経質にも、人生への違和感を覚えたのかもしれない(孤児根性と呼んだようだ)。いや他にもいろいろ理由があっていやになったのかもしれない。だが、同様の違和感を持ってもおかしくない踊り子との出会いが、自分の人生に対する感情(違和感)が「確かに存在する自己自身」の感触などではなく、一種の神経質な思い込みでしかない、硬い実在ではないという理解につながった。
そう考えてみると、川端本人にとってこの出会いが小説にするに値するほど大きな事件であったと理解できる。その後下田から老婆を適切に東京に送り、その後も人と自然につきあうことで、自分の持つ違和感を癒し、生きることを理解したということかもしれない。
それにしても小説をはじめて読んだし映画も観ていなかったので、伊豆の踊り子について大変な先入観を持っていたのだと分かった。それがこの読書の最大の成果かもしれない。
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