だってBだから

へんなおじさんたちのブログ。

Sunday, August 16, 2009

夏目漱石「坑夫」を読んだ(NK)



村上春樹が「1Q84」で引用するだけのことはあり、実に現代的な小説だ。新聞小説でかつピンチヒッターでもあったため軽いノリで書いた面があるのかもしれないが、自分の存在に疑問を持ち自殺を考えつつ、それにも関わらず「あれはいやだ」「これはいやだ」「こう思われるかもしれない」などという実にどうでもいいことにとらわれる自分を見出す。さらには、そもそも人間には小説で描けるような意味での「個性」とかキャラクターなどないのではないか、という一種の結論に達している。小説家をコケにするという意味でメタ小説という構造すらもつ。

確かに人は、実に深刻な状態でもつまらないことに気をとられたりするだろう。それ自身が一種の人間の真実でもあるから、それを描く小説に意味がある。だが、逆に小説家が小説という構造を利用して描ける人間や人生など所詮その一部でしかないと言える。

何ページもかけてそのときの心理を描いてみるが、実はそれは一瞬のうちにおこったのだなどと言い訳する小説が明治の小説とは思えない。さらに、話はある意味でどんどん進んでいくのだが、だからといっていつまでたっても坑夫の仕事に突入するでもない。いや、実は結局主人公は坑夫になりもしないのである。

こういう小説を読んでみると、やはり「効率」だの「成長」だのと神経症のようになっている経済社会は、一種行き過ぎなのかと思わざるを得ない。19歳の主人公は1円も使わずに(高級財布をそのまま取られたりするのだが)銅鉱にたどりつき、鉱山側もそれほどきびしくあれこれさせず、結局売店の帳面をつける仕事で数ヶ月すごす。たいがいのことは金銭で計測するわけではなく(あるいはポン引きの謝礼が分からない程度に不明で)、坑夫は金儲けを目指す仕事であることは分かるが、実際に儲かって出て行く話が出てくるわけでもない。人々はそこそこ人がよく、悲惨な労働環境だが特別でもない。その「特別ではない」ことに気づかされる点で、これは川端康成の「伊豆の踊り子」において、踊り子が差別されていても「特別ではない」のであって楽しく暮らしていることに気づくのと似ている。

結局この小説は一種のロードムービーのようなもので、いろいろなものと出会うことで自分がこれまで持っていた人生の相対化をしていく経緯が主役だ。ひとつひとつの小さいしかしこれまでなかった出会いの中で、自分の価値判断がそれほど重大なものでもなく、あるいは重大なこととそうでもないことが交錯するのが現実だということなどを発見しなおす。

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