島尾敏雄「島の果て」を読んだ(NK)
島尾敏雄「島の果て」ちくま日本文学全集
昭和23年1月の作品。「むかし、世界中が戦争をしていた頃のお話なのですが-」から始まる。「水雷艇学生」のようにドキュメンタリーに近い淡々とした語り口ではなく、メルヘン的にどこか遠いところで起こったことのように語る。島尾にとってはそれほど「最近」のことだったに違いない。「カゲロウ島」で、司令官は「頭目」と呼ばれる。
朔中尉は違和感の塊で、島民の立場から書かれているとはいえ、やはりそこが主張の中心に見える。ひるあんどんの中尉は隼人(ハヤヒト)少尉との比較を常に問題にしている。軍人らしい、経験がある、てきぱきとしている、威厳がある、など。部下はこの副頭目に服従している。副頭目は心の中で朔中尉をすきではない、お酒を飲んだりしたときには、ちくりちくりとつつく。朔中尉が何を考えているのか誰にも分からない。
特攻を命令する「この世とも思われぬ非情な自分」。隊員の「ふう変わりな運命」。また、基地を抜け出して部落へ行く自分。トエは「朔中尉の世にも不思議な仕事を知ったときに」気が違いそうになった。そして自分が人間であることを悲しんだ。この意味では、トエという普通の人間の生活、感情を維持しようとしている側と、自分という異常な環境にいる側とは明確に対立・緊張関係にある。さらに、トエの一種の「愛の讃歌」の純粋な精神状態に対して、自分が「ほかの事を考えている」という違和感。戦争への違和感や非人道への怒りなどまったく最初からない。自分はちょっとふう変わりかもしれないが、普通から見れば非情かもしれないが、と思いながら(そういう風に思う自分に違和感を持ちながら)、それ自体は拒否も否定もしない。
朔中尉の危機は、隊員や隼人少尉との感覚のズレやコミュニケーションのズレのほうによほど大きく存在している。戦争や特攻の違和感をすでに受け容れて「あちら側」にいる自分が、生きる側と接したことがこの小説のひとつのモチーフといえるが、生きたいとかこちら側に戻りたいという叫びなどまったくない。トエははじめから置いていかれるに決まっている。まったくのすれ違いであること自体が、読者の違和感となって残るように仕掛けられる。トエの危機は小説の最後で「ひとまず」通り過ぎたということになるが、朔中尉の違和感は「出発は遂に訪れず」に続くことになる。
あらすじとして描くほどのストーリーは無く、隊長の軍隊生活での小さな違和感、部落の娘との出会い、さまざまな小さな対立とズレ。そして最後に特攻に出発しないことによるトエの救い、が描かれる。
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