「TVピープル」を読んだ (NK)
村上春樹はテレビが怖いに違いない。テレビは意図せずしていつのまにかそこにあり、得体の知れないものを「誰もが知っていなければならないもの」に変質させ、脳の働きを弱め、反抗をゆるさない。その上、個人の生活の中に入ってきていつのまにかそれを破壊し、しかもテレビ自身が個人の破綻を(たいして根拠もないのに)宣言すらしてくる。
TVはそこにあること自体でスイッチをいれさせる力を持っている。世界を縮小した画面、近くにいるのに遠くにいる、何かリアルのはずなのにリアルではないという居心地の悪さを与える。
さらに、違和感は、時計の音と飛行機にある。「タルップ・ク・シャウス」と時計は時を刻み続ける。TVピープルはそれをどこかへ持ち去ることはできなかった。いつのまにか時間が過ぎ去っていく。時計の音はリアルな人生に自分を引き戻そうとする意識の動きと同期する。しかし、彼らは、飛行機を見せてきた。短編の「飛行機-あるいは彼はいかにして詩を読むようにひとりごとを言ったか」でも、飛行機は違和感、得体のしれないものの象徴である。自分が乗っているのか、見ているのか、どこへ行くのか、どこかへ行こうとしているのか、よく分からないままに強い存在感を持つ。TVの中の飛行機は、飛行機のようで飛行機には見えないが、「これは飛行機だ」と信じさせられ、疑問を持つことを許されない。
TVピープルは会社にもいる。テレビは多くの会社の会議室や応接室に鎮座するが、なぜそこにあるべきなのか、よく分かっている人はいない。そんな会議室では、テレビ番組のような、空疎な会話が繰り広げられる。話した本人も内容を覚えていないのに、その内容が格好ばかりつける上司にほめられる。しかもそれに気づいてはならない。
そして、「奥さんは帰ってこない」こともリアリティとなってTVピープルから声明として伝えられる。そこには条理はない。だが、それは事実となりそうだ。個人の生活に間にいつのまにか入り込んでいる。結果として、言葉を失う、理由を失う、考えを失う、関係や意味を失う。不条理な結果を事実にして伝える。それほどテレビは怖いのである。
TVはそこにあること自体でスイッチをいれさせる力を持っている。世界を縮小した画面、近くにいるのに遠くにいる、何かリアルのはずなのにリアルではないという居心地の悪さを与える。
さらに、違和感は、時計の音と飛行機にある。「タルップ・ク・シャウス」と時計は時を刻み続ける。TVピープルはそれをどこかへ持ち去ることはできなかった。いつのまにか時間が過ぎ去っていく。時計の音はリアルな人生に自分を引き戻そうとする意識の動きと同期する。しかし、彼らは、飛行機を見せてきた。短編の「飛行機-あるいは彼はいかにして詩を読むようにひとりごとを言ったか」でも、飛行機は違和感、得体のしれないものの象徴である。自分が乗っているのか、見ているのか、どこへ行くのか、どこかへ行こうとしているのか、よく分からないままに強い存在感を持つ。TVの中の飛行機は、飛行機のようで飛行機には見えないが、「これは飛行機だ」と信じさせられ、疑問を持つことを許されない。
TVピープルは会社にもいる。テレビは多くの会社の会議室や応接室に鎮座するが、なぜそこにあるべきなのか、よく分かっている人はいない。そんな会議室では、テレビ番組のような、空疎な会話が繰り広げられる。話した本人も内容を覚えていないのに、その内容が格好ばかりつける上司にほめられる。しかもそれに気づいてはならない。
そして、「奥さんは帰ってこない」こともリアリティとなってTVピープルから声明として伝えられる。そこには条理はない。だが、それは事実となりそうだ。個人の生活に間にいつのまにか入り込んでいる。結果として、言葉を失う、理由を失う、考えを失う、関係や意味を失う。不条理な結果を事実にして伝える。それほどテレビは怖いのである。
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