だってBだから

へんなおじさんたちのブログ。

Saturday, July 26, 2008

「家族八景」を読んだ(NK)

筒井康隆「家族八景」新潮文庫

筒井康隆が40歳ごろの昭和49年の作品である。描いている8つの家庭の問題は、この年齢層に起こっている。彼はたぶん中年が嫌いだ。あるいは、俗物が嫌いだ(「俗物図鑑」という別の作品もある)が、中年に俗物が多いのだ。分かったような気になっているが、実は幼稚な心のままの大人が多すぎると怒っているのだ。8つの話の中で、18歳から20歳までの七瀬以外に好ましい人物は皆無といえる。だれもが多少の善意や好意と多大な悪意や怒りや苦しみを持っている。問題を避け、うまくいっているふりだけしてみせる。

もっとも七瀬は美しい心の象徴ではない。テレパスであることを隠すために、あるいは悪意を持っていた人間を攻撃するために、男を意識して狂わせ、子供を殺して自殺する女にきっかけを与え、火葬の直前に蘇生した女をそのまま焼かせて死なせる。これは決して倫理のアポリアなどではない。自分を探しながら自分を守ることは、この世代の攻撃への最大の理由となりうる。筒井はたぶん18歳の女も嫌いなのだ。

八つの話は独立した短編として発表されており、それゆえ別々の舞台を持っている。しかし、描かれているのは家族がお互いに隠しているお互いに対する嫌悪であることに変わりない。いや家族同士で嫌悪でなかったが、あまりの不潔さを七瀬が明示することで、嫌悪が生まれているケースもある。家族同士がふたをしてしまった「臭いもの」を他人が家庭に入ることで引きずりだす。それは嫁が「家」に入るときにもしばしば起こる現実の象徴だ。

昭和40年代の家族のあり方(いまより大家族が普通で、女中を使う記憶は残っており、お互いが近しく暮らしていた)がいまとはずいぶん違うものの、テレパスであれば大変な目にあうであろうという七瀬がお手伝いとして家庭を点々とすることのリアリティはいまもある。人の心には悪意のない悪意が存在していて、それをテレパスは直接見る羽目になる。

8つのストーリーは別々に生み出され、徐々に表現が強められる。最初の話では比較的普通の小説のように書かれ、それでも(・・)でくくられた攻撃的な意識が読者に殴りかかってくる。しかし、たぶん筒井は人間の意識がもっと同時にたくさんの似たような悪意や気持ちを持つことを表現しようとする。{・・}で(・・)をふたつくくって、同時に流れる意識を表現するという離れ技を出してくる。人の意識はあるときは抽象画のように四角や三角の集まりだったりもする。さまざまな記憶の断片であったりもする。それらを強烈な言葉の塊として読者に投げつけてくる。これは読むのが苦しい小説なのである。

0 Comments:

Post a Comment

<< Home