だってBだから

へんなおじさんたちのブログ。

Sunday, November 23, 2008

クローバーフィールド(Hakaisha)を観た(NK)


見たのは5月。米国版ゴジラを観た上でこれを観るときわめて面白い映画だ。それなくしてみると怪獣映画なのに一種観念的で分かりにくい面があるが、ゴジラファンの監督がゴジラというものについて、あるいは破壊者というものについてリアルを追求したと考えれば、非常に分かりやすくかつ面白い。この監督は、リアルとは何か、ゴジラ(のようなもの)に出会う人間を通じて、ホームビデオ(風)撮影で迫っていく。
最初にかなりくどいパーティシーンが続く。ここで誰が何者かはなんとなく分かるが、やたらと観にくいホームビデオを通してしか観客はものが見えないという歯がゆさにさいなまれる。また、そのパーティの退屈さにも閉口する。しかし、この退屈なパーティこそ人間のリアルだとすれば、あるいはその象徴だとすれば、その後の強烈かつありえない展開との対比で非常に重要な役割を占める。パーティでは日本に赴任が決まった(たぶんゴジラへのオマージュから東京勤務なのだ)普通のちょいエリートの若者が主人公だ。彼は、日本赴任にあたって彼女と別れる方向のようで、その点を兄に諭されたり(別れることはないと)する。兄の婚約者が出てきたり、ちょっとゆがんだ性格の友達が語り手としてホームビデオを持ち続けることになったりする。その友達は自分の片思いの女性を撮影するが、彼女はそっけない。このパーティに興味がない。そんなきわめて日常の中での小さな波風を、ずいぶんと時間をかけて見せる。日本に行く主人公はそれなりに思うところもあるが、要するに瑣末で小さな日常であることが、その後のめちゃくちゃな話との比較で重要なだけだ。
その後、停電や花火のような光や爆発などが起こって、みんなは外に出る。なんと自由の女神の頭が道路に飛んできている。しかし、まだ日常からそれほど離れていない人々は、それをなんだか分からないなりにケータイで写真に撮る。だが、そのあたりに怪物が現れる。ここで恐怖はカメラに表れない。リアルさは、カメラにつかまらないこと自体にもある。まわりの人間はゴジラにあたる奇妙な怪物を見ており、しかも人を食った瞬間まで見るはめになる。だが、観客はカメラが移していないものを見ることができない。さらに、そのあたりにいる人間たちもみんなが同じものを見るわけではない。ここから、退屈なリアルが、なんとも不可思議で認識できない世界に変化し始める。その後、あちこちでアパートが壊れるなど被害が出る。みんなで避難を始めるが、橋を渡るときに兄が食われ、マンハッタンに戻る。
マンハッタンは島であって、ここを出られないことがその後の不幸になるのだが(作戦名クローバーフィールドは、マンハッタンを完全に「何もない場所」にしてしまうものらしい)、うがった見方をすれば、マンハッタンがいかにも狭く集積した町であり、人に閉塞感をもたらしているという主張なのかもしれない。「アイ・アム・レジェンド」の設定にも、橋を爆撃して人を出られなくするシーンがある。そして、ここでもまだ怪獣(なのか何なのか要するにいま逃げている人間にはまったく分からない)が観客の目に入ってこないことに気づく。ホームビデオではほとんど何も映らない。そこで新たなリアルに気づかされる。怪獣に追われる人間を見ているゴジラ映画の観客は、まったくリアルではないのだ。ゴジラでは、人は高い場所から鳥瞰し、何が起こっているかを把握し、ゴジラは水爆実験で生まれたとまで知っている。しかし、そこに突然現れるというのが実は普通の退屈な日々を送る人にリアルなのだ。CNNやら町のうわさやら、その後軍隊との接触があったりして、どうも人間が生み出した奇妙なものらしいとかいくつかの情報は断片的に獲得されていく。
しかし、それにはあまり意味がないのである。えさとして追いまわされるか、軍隊の攻撃の巻き添えを食うか、どちらにしても意味が分からない世界において、ただ自分を生き延びさせることと、取り残された彼女を救うこととを考えて行動する。それまでの退屈なリアルはなくなり、新しいリアルに翻弄される。東京に赴任するとか、そういうことには意味がなくなり、自分に瑣末な忠告をしてくれた兄は食われ、母親にそれを電話で報告する自分がある。しかし自分がどうなるのかも分からない。
監督はゴジラのような映画がある日本がうらやましいと小さいころに思ったそうだ。この破壊者の本質をそのころから自分の身の上に置き換えて考えていたのかもしれない。語り手の友達も何の理由もなくこれに巻き込まれ、なんとなく「付き合い」で冒険の只中に入り、結局死ぬ。そして徐々に怪獣の全体像がホームビデオでも明らかになっていく。ヘリコプターに乗ることでそれは実現する。それが姿を見るという意味で初めて与えられたリアルかもしれない。だが、結果としてヘリは怪獣に落とされ、語り部は食われる。その追いかけていた彼女もすでに死んでいる。ビデオカメラもいったん怪獣の胃袋を撮影するが吐き出される。いったん救い出した彼女と主人公は最後の二人となりカメラを拾って逃げるが、セントラルパークで怪獣のせいか軍隊の攻撃かよく分からないなかで死んでいく。とにかく何がなんだかわからないのがリアルであることを突き詰めていく。
そのふたりの死の直前に、主人公のとっさの思いつきで、ホームビデオに新たな役割が与えられる。それが記録である。自分が誰であるか、を残す。分からないがとにかくそうしてそこに生きたことを記録する。それがつまり人生なのだ、リアルという点からみれば。破壊者が現れて死ぬにせよ、実はそうでないにせよ、人間自身、自分自身にとっては、人生とは何か小さな記録が残ることに過ぎない。ゴジラは構造的であった。ゴジラの生まれた理由は報告され、攻撃は観客に説明される。しかし、リアルではそうはいかない。分からない。だが、そもそも人生がなぜあるのか、なぜ今生きているのかだって本当は分からない。しいて言えば、いま生きたことを自分の家族や知りたい人と分け合うためにホームビデオに残すことくらいしか、思いつかないのだ。
昔の写真をJpegにしてスクリーンショーにできる写真たてにいれて飾る、日々の退屈な営みに、本質的にリアルな人生が凝縮される。厳密に言えば、本質とかリアルなどということは所詮そういう自分の選択と記録でしかないとも言える。人は、突き詰めれば記録することの中に、人生を押し込めて、すこし納得するのだ。記録することに何か意味があるのかは分からない。ただ、たぶん死ぬ人が「無にならない」こととは誰かの記憶に残ることだ。そして死に行く人は、誰かの記録や記憶に残るであろうという希望を胸に、死ぬのだ。そうでなければ「自分」が「無」でしかないことになり、きっと耐えられないのだ。死ぬことを知っているから、人は記録しようとする。記録の中に、人が生きていたことを発見する。そういう程度だ、っていうリアルがある。