だってBだから

へんなおじさんたちのブログ。

Sunday, August 16, 2009

ガルシア・マルケス「予告された殺人の記録」を読んだ(NK)


ガルシア・マルケス自身がノンフィクションとして書こうとしたという実際に起こった事件をもとにした小説。本人が傑作と考えているらしい。さまざまな立場と時間の交錯は独自の文体と言えるのだろう。

扱う内容は、つまり「予告することすらできる殺人」がなぜ存在しうるのか、という点にあり作家自身の友人が友人を殺害した、それを止められなかったという違和感が根底にある。殺人の理由は「名誉毀損」をチャラにするため。殺した双子の兄弟は反省することも無かった。スペイン語圏ではロルカの「血の婚礼」でも扱われる恋愛や結婚にまつわる殺傷事件でもあるし、最近イスラム圏で起こる兄弟による姉妹やその恋人へのリンチともつながる。もっとも、適切な相手を殺したのかすら真相は分からない。

妹が婚家から帰されてきたのは、他の男と関係があったことが分かったから、というのがスタートだが、その兄二人はそのまま放置しては自分の家の名誉が傷つくので相手として妹が名をあげた男を殺すことにする。しかし兄弟はそもそもまじめなのであって殺人など犯す必要も本来は無く、実は誰かにとめて欲しかったのではないかと思われるような行為を繰り返しつつ相手を探す。町中が結婚そのものと司教が来るという大きなイベントの中で多少狂ったタイミングでもある。まわりはそれほど深刻に取り上げなかったことを後悔することになる。

9.11の後のいまとなっては現代的問題であるかもしれないが、テロであれ戦争であれ死刑であれ、直接恨みがない相手への殺人が一種のアポリアとなって突きつけられる。あるいは「まさか」と思いながら見過ごしていく人々の生活が描かれる。この裏にはコロンビアという国のさまざまな問題や差別、憎しみ、ねたみなどがあることも示唆されるが、だからといってそこが珍しいとも言えない。一番奇妙で珍しいのは、誰もが当然と思うリンチとしての殺人が起こること、それを悲しいと思いつつとめられないこと、なのであろう。これは、中国を舞台に映画化されたほどにグローバルに普遍性がある。

日本には仇討ちというまた独特な世界があり、それを「天晴れ」などとしてしまった風土はあった(もちろん赤穂浪士の事件では国論を二分する?議論があったようだが)。仇討ちしなければならない武士の倫理のせいで国を追われるように旅立つ子どももいたらしい。だが日本人はやはりそのような問題を比較的個人的な世界での悲哀に変換してきた気がする。忠臣蔵という題名から仇討ち側に味方したのが世論の結論なのだろうが、それを描くドラマや小説が仇討ち自体を当然視し、それのためにがんばる姿を描きすぎてきた。社会が内包する殺人システムが人間を曲げたり違和感を与えたりしなかったのか。だれもがこのような解決を受け容れられたのか。例えば知識人はショックを受けなかったのか。そこに違和感を感じるこちらがおかしいのか。

太宰治「斜陽」を読んだ(NK)



太宰が新聞小説として貴族の戦後の没落を描いたことで大衆的人気を獲得した小説。しかし、内容としてはそれ以上のものがある。基本的に私小説的であり自分の生活に関わる元貴族の女性が一人称で語る。貴族丸出しの女性の語り口は確かに人気を得ただろう。

しかし、実はこの女性も、その弟も、小説家もすべて太宰自身である。その意味で、この小説は実に構成をしっかりさせた小説らしい小説でもあり、本質的に私小説というか太宰自身に向き合った小説でもある。

完全な女性として、女性の母親が出てくる。息子(弟)は母親へのコンプレックスが強い。もちろん主人公もそうなのだが、息子は母親が死んだとたん自殺する。息子が自殺するのは自分探しの不徹底とか社会との不一致、あるいは違和感の結果であるから、それ自身太宰の感覚を象徴する。どこにいっても安心できない。女性はある意味で強いので、革命を起こすかのように倫理的に悪い行為に進むのだが、それ自体が没落というよりも斜陽であって、人としての救いではないことが示される。

ただ、個人と向き合ってしまえば、社会に対して違和感しか感じないという太宰、三島、川端など日本を代表する小説家の小説のモチーフは、それなりに飽きる面がある。一度にたくさん読むと実に「同一」なのである。マルケスが描く個人と社会との違和感は、例えば社会で当然視される殺人があり、そこに矛盾を感じない個人を描くが、構図はまったく逆である。オウム真理教事件などに強い衝撃を受けた現代の小説家である村上春樹が描くのもやはりマルケスなどと同じ方向から社会と個人を見ようとする。

三島などが戦争を通じて訪れた美の危機と自分の危機とを同一視できた瞬間を金閣寺で描いたように、敗戦という大きな社会的危機を通じて、日本人は外向きの思想を持つチャンスがあったのではないか。にもかかわらず、戦後にそのような動きは無く、逆にさらに内向的になったようにも見える。それは戦争中と戦後の思想の転向が原因かもしれない。あまりに大きく変わらなければならなかった日本の知識人は、そもそも繊細さが「売り」だっただけに、社会性を持ちそこなったのだろう。戦争前に社会主義から転向した太宰の傷つきは深かったのだろう。その繊細さ(人に好かれたい心も強い)ゆえに、社会との不一致、受け容れられなさへの落ち込みが強かったのか。

夏目漱石「坑夫」を読んだ(NK)



村上春樹が「1Q84」で引用するだけのことはあり、実に現代的な小説だ。新聞小説でかつピンチヒッターでもあったため軽いノリで書いた面があるのかもしれないが、自分の存在に疑問を持ち自殺を考えつつ、それにも関わらず「あれはいやだ」「これはいやだ」「こう思われるかもしれない」などという実にどうでもいいことにとらわれる自分を見出す。さらには、そもそも人間には小説で描けるような意味での「個性」とかキャラクターなどないのではないか、という一種の結論に達している。小説家をコケにするという意味でメタ小説という構造すらもつ。

確かに人は、実に深刻な状態でもつまらないことに気をとられたりするだろう。それ自身が一種の人間の真実でもあるから、それを描く小説に意味がある。だが、逆に小説家が小説という構造を利用して描ける人間や人生など所詮その一部でしかないと言える。

何ページもかけてそのときの心理を描いてみるが、実はそれは一瞬のうちにおこったのだなどと言い訳する小説が明治の小説とは思えない。さらに、話はある意味でどんどん進んでいくのだが、だからといっていつまでたっても坑夫の仕事に突入するでもない。いや、実は結局主人公は坑夫になりもしないのである。

こういう小説を読んでみると、やはり「効率」だの「成長」だのと神経症のようになっている経済社会は、一種行き過ぎなのかと思わざるを得ない。19歳の主人公は1円も使わずに(高級財布をそのまま取られたりするのだが)銅鉱にたどりつき、鉱山側もそれほどきびしくあれこれさせず、結局売店の帳面をつける仕事で数ヶ月すごす。たいがいのことは金銭で計測するわけではなく(あるいはポン引きの謝礼が分からない程度に不明で)、坑夫は金儲けを目指す仕事であることは分かるが、実際に儲かって出て行く話が出てくるわけでもない。人々はそこそこ人がよく、悲惨な労働環境だが特別でもない。その「特別ではない」ことに気づかされる点で、これは川端康成の「伊豆の踊り子」において、踊り子が差別されていても「特別ではない」のであって楽しく暮らしていることに気づくのと似ている。

結局この小説は一種のロードムービーのようなもので、いろいろなものと出会うことで自分がこれまで持っていた人生の相対化をしていく経緯が主役だ。ひとつひとつの小さいしかしこれまでなかった出会いの中で、自分の価値判断がそれほど重大なものでもなく、あるいは重大なこととそうでもないことが交錯するのが現実だということなどを発見しなおす。

Saturday, August 08, 2009

川端康成「伊豆の踊り子」を読んだ(NK)

伊豆の踊り子がどうして人気小説となり(1926年)戦後も映画やドラマになったのか理解しがたい。一種の勘違いだったのだろう。文庫版の解説などによれば、早くに孤児になった川端が淡い恋と旅情の中で人の温かさや自分が受け容れられる感情を取り戻す話らしい。そうだとすると、これまでの映画やドラマはほとんど原作を換骨奪胎したといえるし、さらに人気となった当時もたぶん勘違いに基づいて清純な恋愛小説として読まれたといえる。

小説を読むと、川端の興味は本質的には踊り子本人にはないようだ。確かに最初はちょっと気になって追いかけたし、その後相手も多少気にする面もある。だが、主人公は入浴を遠くから見たとき子どもだったことに気づくのであり、踊り子もその後それほど気にしていないとすらいえる。しかし、庶民的に興味を持てる部分は、踊り子と主人公が淡い恋であったはず、という思い込みに基づいて、ロードムービー的に伊豆を旅することなのだ。しかし二人の別れにそんな恋の気配は無く(どちらかというと親戚の親愛のようなものが出ている)、伊豆の旅はそれほど詳細に書かれているとも言いがたい。

この小説で描かれているのは、身分や差別である。踊り子たちは差別され(例えば村に入るなという看板だったり、茶屋のばあさんも表向きはそうでもないが裏では悪く言ったりする)、自分の立場はその反対にあり、芸人にお金をひねってあげたりもする。身なりもいいし、20歳の学生にもかかわらず贅沢に旅行をしている。ここで主人公はそういう差別の対象者が意外に本人たちはそれほど気にもせずある意味軽々と暮らしていることに気づく。

もうひとつのポイントは、主人公がこの踊り子一座に受け容れられることである。もちろん主人公が避けたり嫌な顔をしたりしていないことで受け容れられたのだが、縁や出会いを大事にする旅芸人が主人公を大島に誘う。主人公はそれほどこの出会いそのものに固執しない。だからこそ下田の港で預かる東京に向かう年寄りに気持ちが移る。そこには新たな信頼や受け入れがある。このエピソードは、この小説の主題が特定の踊り子などではないと主張している。

この小説そのものの中にはそれほど解説的な文章は無いのだが、確かに主人公が伊豆を歩いて無目的に旅するという設定で、ある程度自分の存在そのものに疑いを持つ主人公を想定するべきかもしれない。その上で考えてみると、この主人公はもともと差別されている旅芸人に独特のシンパシーを持っている。同じように人生に違和感を持っているはずだ、と思ったのかもしれない。踊り子に特に興味を持ったのも、見かけもあるだろうが、実はその違和感が一番強く見えたのかもしれない。

ところが実際に出会ってみればそこには男と女、大人と子どもあるいは大人になりかけの連中がいて、それなりにやりたいことや望みを持ち、大変であってもいろいろ楽しみを持ちながら暮らしている。そして新たに知り合ったものにもなんら違和感を持たずに接しているように感じる。自分と同じ階層に属する人間ではなくとも問題ではないのだ、受け容れられるのだ、人は人を受け容れるのだと彼は感じる。

次々と親や親族を失い「孤児」というレッテルを貼られたと感じた川端は、そのよく言えば高い感受性で、悪く言えば神経質にも、人生への違和感を覚えたのかもしれない(孤児根性と呼んだようだ)。いや他にもいろいろ理由があっていやになったのかもしれない。だが、同様の違和感を持ってもおかしくない踊り子との出会いが、自分の人生に対する感情(違和感)が「確かに存在する自己自身」の感触などではなく、一種の神経質な思い込みでしかない、硬い実在ではないという理解につながった。

そう考えてみると、川端本人にとってこの出会いが小説にするに値するほど大きな事件であったと理解できる。その後下田から老婆を適切に東京に送り、その後も人と自然につきあうことで、自分の持つ違和感を癒し、生きることを理解したということかもしれない。

それにしても小説をはじめて読んだし映画も観ていなかったので、伊豆の踊り子について大変な先入観を持っていたのだと分かった。それがこの読書の最大の成果かもしれない。

アフリカ 動き出す9億人市場、を読んだ(NK)

アフリカ 動き出す9億人市場(Africa Rising)、ヴィジャイ・マハジャン著(Vijay Mahajan)
ビジネスの教授がアフリカのビジネスチャンスを語る本。中国の13億人に比べてアフリカは全部で9億人、インフラも政治状況も悪い。しかし、欧米などでの印象が悪すぎるところに逆にビジネスチャンスがあり、その歩むであろう道を推測できるインドや中国の事業家がアフリカを訪れているということのようだ。停電が多いから発電機が売れる、といった「みんなはだしだから靴は売れない」「だから売れる」という古典的な発見モノでもある。さらに「メディアは悲惨な状況について話すことばかり好んで、成功を伝えることに対しては非常に抵抗感を示すのです」というコメントを紹介している。市場の力に十分気づいていない。そこにチャンスがあるという。

インフラ不足、政治が機能せず官僚や警察は賄賂が横行するといった問題は、先進国に比較すれば明らかにある。それゆえ市場は官民協同で「組織化」するのがよいという。特に健康や社会問題にかんする場合、重要だ。

ノバルティスの抗マラリア薬は効果が強い薬だったが、問題はコスト、流通、認知度、教育にあったという。WTOなど経由で原価で提供。無料配布され知らしめられた。また、薬局や医師を通じて裕福な顧客層に営利事業を展開した。教材やイラスト入りのパッケージを作った(マラリヤ対策の蚊帳が魚網い使われた例があった)。病院でもこの薬が積みあがった横で間違った薬が処方され、分量も間違っていたこともあるという。偽造薬品の被害もあり、処方薬が薬局で売られ、価格も一様ではない。

ナイロビの蜂、という映画もこの観点からみれば、逆方向を見ている。会社は悪いことをしがちな存在であり、いつのまにか悪意に満ちている。しかし、たぶん現実はこの本に近いのだろう。すべてを国の官僚組織やNPOなどにゆだねても薬や医療がいきわたるのは難しいだろう。逆に、企業の「いつかは利益を上げる、成長市場に参加する、いや市場を作り出すといったインセンティブに任せたほうが効率よく最善になりやすそうなものだ。企業はインフラ不足などの現実をうまくハンドルすることができる。NPOなどがあきらめても希望があればあきらめないし、誰とでも組むだろう。ナイロビの蜂であるスリービーズという医薬開発会社も「市場を組織化する」ために無料の医薬品提供や健康相談を行ったのだろう。

しかし、誰とでも組む、なんでもできる、ということが企業の問題でもある。それを律するためのコンプライアンス(法令遵守)姿勢は、企業のカルチャーとして埋め込まれていなければならない。これは経営問題として重要だ。特にアフリカをはじめインフラや政治組織が未成熟な地域での企業活動は、いかに自らを律するかが重要であろう。
「援助ではなく貿易を」と題した章において、「アフリカは戦争と病気と支援要請しかない大陸だ」という印象が生まれるのが問題だと述べる。しかし、慈善事業だけですべてを救うことは不可能だし、事業がリードするほうが良いだろう。逆に企業が企業市民活動として病気、貧困、腐敗などの課題に取り組む理由はこの本では「賢明な利己心」と表現されている。従業員や顧客が直面している問題に懸念を抱かない企業は、長続きしない。だからこそCSRが必要だとみている。これは経営学者としては標準的な見方だろう。

問題があるからこそビジネスチャンスがある。この考え方を否定することは、企業が成長の中心であることを否定することだ。銀行が無ければ携帯電話で銀行をやる、健康問題があれば、医薬品や保険の需要がある。そこで利益を上げるインセンティブは、ナイロビの蜂の人体実験(いずれにしてもこの人たちはもうすぐ死ぬのだ、といった感覚からスタートしている)のような方向にころばなければ有用に違いない。どうやったら転ばないのか、そこには国民の利益を守る政府すらないのだから、企業が自らを倫理的に自己管理する仕組みを持たねばならない。それすら、社長自らその模範となれない会社であれば、機能するはずがないのである。

ナイロビの蜂、を観た(NK)


アフリカ・オセアニアの映画を観る宿題の一環。もともと原作(集英社文庫、上・下)があり、舞台はケニア。イギリス人の話で「Constant Gardener」という題名だった。主人公は外交官だが植物を愛するが世情にあまり興味を持たない官僚(いつもガーデナー)。しかしそこに安心感を感じる正義感の女を妻にして、ケニア高等弁務官事務所に赴任。妻が不正を暴く中で殺害され、自分も妻が死んだ理由を求める中で、自分が妻が自分の家のような存在であったことに気づかされ、妻がいかに自分を守ってくれていたかを知ることになり、自ら死地に向かう。

フェルナンド・メイレレス(ブラジル人でシティ・オブ・ゴッドの監督)は、サスペンスとはいえハリウッドではとても採用されえないストーリーをすばらしい映像で映し出してくれる。やはり映画は絵が良いのが一番だ。

ケニアのビビッドな空気の色とロンドンのグレイな空気との比較。赤い大地、青い湖、その上を飛ぶ白い飛行機。動かない自然と動く人工物、あるいは動かない大地と空を翔けるフラミンゴの群れ。といった絵の美しさは、映画の筋書きに寄り添いながら、すさまじい力で迫ってくる。一方で、地面をはいつくばって歩く人間を追いかけるのは、ハンドカメラ。ホームビデオのようにぶれまくりながら走る人を追いかける。あるいは列車から見える橋や建物。飛び去りながらも暗い全体像を象徴する。

本当の「ワル」などいない。小市民的な小さい愛国心や嫉妬や投げやりな生き方などが積み重なるところに、大きな悪がいつのまにか存在する。会社というかたちをとれば、その組織力はいつのまにか大きな暴力の中心とすらなりうる。アフリカでひそかに人体実験を行う薬品会社は少々やくざなおやじに率いられているが、英国政府とうまく結んでおり、表面的にはアフリカで無料で薬を配ってもいる。それを暴こうとする妻が殺されるのだが、明示的に殺しを指示したものがいるとも言えない。官僚の悪も暴かれはするが、それもそれほど大きな悪意の結果とも言えない。

主人公は一方でそういう事実にも気づかざるを得ない。妻を殺したのは殺し屋であり誰がそうさせたかわからないでもないのだが、関わった全員を殺したいということにもならず(ひとりひとりの参加は小さいからだ)、ただひたすら自分の中に戻らざるを得ない。ロンドンでのめぐり合いや楽しかった思い出やその後の証言や証拠から分かる妻の自分への気持ちなどが、結局一番大事であったことが分かる。そしてそれが帰ってこないということだけが大きな事実として残る。そこには絶望しかなかった。