だってBだから

へんなおじさんたちのブログ。

Monday, July 27, 2009

三島由紀夫「金閣寺」を読んだ(NK)

辺鄙な岬の寺の住職の息子である「私」は、父に金閣寺の美しさを聞きながら育つ。運動ができず吃音で体も弱い私は、いじめられてきた。吃音は自分自身と外界の障碍でもある。「鍵がさびついてしまっている」状態だ。自分が最初の音を発するためにあせっている間に、現実はもう新鮮ではなくなっている。自分にふさわしいのはこの腐臭を放つ現実でしかない、と考える。その負い目は、一方で私をひそかに選ばれたものだ、使命が待っていると思わせる。しかし、誇りに満ちた海軍機関学校の先輩が来るとその美しい短剣の鞘に傷をつける。

脱走兵をかくまう近くの女に恥をさらしたため、女の死を願うが、それが成就するというエピソードもある。私の顔は世界に拒まれているという意味で醜いが、その女の顔は世界を拒んでいる、という意味で美しかった。いったん脱走兵を裏切ることで自分が受け入れられた気がするが、さらに裏切られ、心中に立ち会うことになる。結局世界を拒むのでもなく受け容れもしないことが分かる。

そもそも金閣は私にとって「自分の知らない場所に美が厳然として存在する」と言う意味で不安や不満の象徴であった。私という存在は美から疎外されているからだ。実際に見た金閣の第一印象はそれほど美しくはなかった。父親と友人の田山和尚が私を金閣に受け容れることを決める。父が死にサイパンに米軍が上陸し、戦乱と不安が時代を覆っている。暗い心の持ち主が企てた建築と見られる金閣は、三層のばらばらな設計が不安の結晶であり、時代にも私にもマッチしていた。

「金閣が灰になることは確実なのだ」と思うことは、金閣の悲劇的な美しさを増した。空襲の怖れの中で金閣寺は「現象界のはかなさの象徴に化した」ので、水面に映る姿が投石で崩れ去るようにはかないものと認識できた。それは自分と金閣が同一の次元に住むことでもあった。しかし、醜いものも美しいものも「おしなべて同一の条件下に押しつぶしてしまう巨大な天の圧搾機のようなもの」は結局現れない。

鶴川という同じ徒弟の友人と大学で知り合う柏木という友人はどちらも私を反映するものであり、自分の一部と言えそうだ。鶴川は吃音を気にしない。自分がネガであれば彼はポジであった。自分の暗い感情は彼の心にろ過されると透明で光を放つ感情に変わる。柏木は不具で、自分と同じ悪の側にいるが、認識を代表している。自分が行為を代表することと対照的である。

京都は空襲にあわないまま戦争が終わる。金閣と私が同じ世界に住むという夢想は崩れた。金閣の住職になれば自分のものになるという新たな考えが浮かぶ中で私は大学生になる。新たに田山和尚が一種の障碍となる。いずれにせよ戦争が終わり金閣と自分が同一になれないと絶望したことが、自らの邪悪を繁殖させようという意思と死のような行為への欲求となる。

酔った米兵が連れていた女性の腹をけって流産させたことが最初の悪となる。住職からは寺を継がせることをほのめかされるが、その女が脅迫に来ることで悪事は知られることになる。ここからこの老師は美の行為や認識の象徴として描かれることになる。老師は本人には事情を聞かない。だからどこまで知っているか分からない。そして、そのまま受験させる。そのことが、私が老師が怪物に見えるきっかけともなる。また悪事が成就することを示すことになる。

柏木の不具は目に見える。その意味で不敵な美しさをもっている。見られることに疲れ飽きていて、存在そのもので見返している。不安もない。愛もない。愛は仮象が実相に結びつこうとする迷妄だ、という。結局愛など仮の姿であって、見る自分が見られる相手に対して無駄な働きかけをしているにすぎない。愛されないことは人間存在の根本的な様態だと見切る。柏木はこのように「認識」を重視する。おかれている暗黒の立場は私と同じでも、その暗黒を大事にしても何もならないと見る。そもそも美も暗黒も柏木にとっては認識の問題でしかない。彼にとっては美も偽善的なのかもしれない。愛も美も化けの皮をはがす対象でしかない。それゆえ、美を憎み「同じ次元にいられないなら消してしまいたい」と思う必要もない。裏返せば、自分自身が不敵な美しさを持つからこそ、美と同時に存在したいと思わないといえる。「見る」主体と「見られる」美あるいは自分とを同時に経験できるからこそ、このような認識が可能となる。柏木と私の差は、「金閣寺」の重要な主張となる。

私にとって金閣が象徴する美とは、静寂でありゆるぎないものであり、その意味で人生から自分を遮断し私を守ってくれる面があった。相対化してしまうことは許せなかった。美という自分のもたない別の世界は自分にとっての不満や不安の源泉でもあるが、自分が「それではない」という意味で自分のアイデンティティであったとも解釈できる。目に見えない不具と劣等感を持つ私は、自分の反対側に美とか光を持たねばならなかった。だから、柏木の見せる人生は、生きることと破滅することが同じであり、自然さに欠け、構造が美しくないと見えた。

鶴川が突然事故死するが後に自殺であったと分かる。自分の明るさの部分が失われたショックは、さらに彼が自分の一部ではなかったことも示すことになる。存在するだけで光を放つようなものは、結局虚無の比ゆであり実在的な模型であったように見えてくる。彼は自分の独自の使命などを持たなかったことで何かの比ゆであることがなく、連帯感も無く、孤独だった。

柏木が私にもたらした尺八は、吃音という「聞こえるもの」の美に関わる象徴である。自分が音が出せないことで外界とうまくつながらない。さらに尺八はなかなか音が出ない。しかし、努力すれば音を出すことができるという救いがある。一方で音楽は長持ちしない美である。音楽は生命にいており、金閣は同じ美であっても生を侮蔑している。また、柏木が自らを見られ飽きているという意味で美に近いように、私は、音楽が自分にとって美であるなら、美を受け容れることができたに違いない。金閣はそのようなものではなかった。

柏木にとって美とは虫歯のようなものだ。引っかかり痛み自分の存在を主張するが、抜いてみれば「こんなものだったのか」と思う程度のもの。しかし、それは抜き取られてしまって別のものになったともいえる。もともと自分の内部にあった。根は絶たれていない。美を切って捨ててもなくならない。固執の心に耐えるほかに解決は無い。さらに柏木にとって生け花は音楽と同様うつろう美であるとともに、上品にしている花の先生の化けの皮をはぐチャンスでもあった。

金閣は、所詮女への愛も虚構であることを示す標識として現れる。美しく見えてもその背後には、内部には闇が詰まっている。自分が作り上げるつまらない認識でしかないものは、金閣という実存する美に打ちのめされる。本当の永遠に存在する美は、自分に対立して同じ次元に立ってはくれない。金閣は自分をそういうつまらない「人生」から守ってくれるように現れるのだが、そのせいで自分が自分の人生を歩めないように感じさせてくれる。自分が闇を持つ自分そのものから疎外されてしまうと感じる。そしてついに私は金閣を明示的に呪うことになる。

菊の花の美しさが金閣に貶められることがないのは、その造形が蜜蜂の欲望をなぞって作られたからだ。その美しさ自体が、花咲いたとたんに形態の意味が輝く瞬間となる。蜜蜂はそこで酩酊を許される。蜂ではない自分にとって、菊は、その名と約束によって美しいに過ぎない。菊の美しさは、蜜蜂ではない自分が見たとたん、自分の生と関係が無くなる。金閣だけが絶対的な美の象徴であるならば、自分が金閣の目となるしかない。それが「悪」として自分の前に厳然としてある。

次に思いもよらず老師と町であったあと、自分が笑ったことがその場で老師を怒らせたものの、その後の叱責が無かったことで私はいらだつ。無言の放任は、実は老師の行為であるかもしれない。老師はすべてを知っていて、行為で分からせようとしてるのかもしれない。老師は実は金閣の象徴として行動しているのかもしれない。そのような懸念は膨らむ一方となる。老師の憎悪の顔をつかみたいというひとつの悪は、実は老師が金閣の意志を行動にしているのかもしれないという恐怖の裏返しとして解釈できそうだ。その後の写真の件も激怒をおこさせることはできなかった。大学の成績が悪いことや出席していないことは叱責されたにもかかわらずである。ただし、老師の態度は、後継にしない心積もりだといった後、よそよそしくはなる。しかし、老師は「現世を完全に見捨て」、「現世を侮蔑している」表情を見せる。つまり老師は金閣と同じ次元にいる。私はそう認識せざるを得ない。

金閣から逃げ出すことにした私は柏木から金を借りる。この家出のときに、「金閣を焼かねばならぬ」との考えが生まれる。人間はモータルであり厳密な一回性を持たない。金閣は不滅だ。しかし消滅させることはできる。これは私の「独創性」だ。金閣の無い世界を作れば、世界の意味は確実に変わる、そう信じた。家出は警察の保護で終わり元に戻る。借りた金を老師に返させた柏木のせいで、私は老師にもう置いておけない可能性を示唆される。決行を急ぐことになる。

柏木はここで「世界を変貌させるものは認識だ」と私に言う。生を耐えるために人間は認識を武器として持った。蜜蜂ではない人間は、生から切り離された存在だ。そう認識することであきらめて生きていくともいえる。しかし、私は、「世界を変貌させるのは行為だ」と反論する。柏木は美を切り刻んでも本来実体は無いと考えている。幻影だがそれに現実性を付与するのは認識だという。だが、私にとって美は怨敵になっている。

老師はもっとも謙虚な姿勢を私に見せて訓戒しようとした(と私には見えた)。金閣が行為すればそうなるであろう、とも解釈できる。しかし、私は、「老師と私は、もうお互いに影響されることのない別の世界の住人になった」と思わせる。

いよいよ金閣を焼きに行く。金閣の細部の美はそれ自体不安に充たされていた。予兆は予兆につながり、ここには存在しない美の予兆が金閣の主題だと分かる。虚無がこの美の構造だったのだ。そして私は金閣が発する無力感にとらわれる。しかしそれをはねのけて放火する。三階の扉が開かないことで「拒絶された」わたしは外に逃げる。

この話は、金閣寺炎上という事件を題材としているが、美の絶対性に押しつぶされる自分、その光の部分を演じる(が演じるに過ぎなかった)鶴川、自分と類似だが生を絶対性との対立とは見ず人間の認識で成り立つと見る柏木、さらには金閣という美が虚無であるという認識(そこにはないが予兆としてどこかに存在するものを示す)、老師が絶対的な美の行為を担当するという設定、これが三島の創作である。たぶん三島は事件を換骨堕胎し、自分のモチーフである美とかあるいは何か絶対的なものが生に襲ってくる状態を描きたかった。三島自身がコンプレックスを多く持っており、繊細な感情はつねに自分の存在を脅かすものに囲まれていたのだろう。身長や虚弱体質などがここでは吃音や不具として現れる。

そこにのしかかるものは、ここでは美と醜さの対立となる。絶対が存在するとすれば、それは恐怖の対象ともなる。それを焼くことができることに気づいたのがこの主人公とすれば、読者としては、真善美といった普遍的な徳目の存在感のゆらぎを認識したことになる。

Sunday, July 26, 2009

世界最速のインディアン、を観た(NK)


オセアニアのニュージーランドについて考えるために、この映画を選んだ。2005年、ニュージーランド・アメリカ合作、ロジャー・ドナルドソン監督、アンソニー・ホプキンス主演作品。ただしニュージーランドの風景が多く出てくるわけではない。逆に米国においてニュージーランドとの差を考えさせるようにできている。1000cc以下のオートバイの地上最速記録保持者であるバート・マンローの実話に基づくフィクション。

ニュージーランドで暮らすバート・マンローは、バイク“インディアン”でアメリカのボンヌヴィル塩平原で世界記録に挑戦しようとしている。すでに引退して年金暮らし(63-67歳と想定?)だが、1920年型のバイクの改良を試みる。

描かれるニュージーランドは、米国の田舎などと似た住宅街。ニュージーランドでも田舎と思われる南端の町インバーカーギルである。隣家は、マンローの家だけが物置小屋状態の上、雑草を刈るなどしないことで住宅価値が下がることを懸念するような小市民。総じて生活水準は高く、家庭に電話があり、キッチンには各種道具がそろっているなど、60年代としては豊かな生活の一端を見せる。そもそも年金暮らしでバイクをいじり続けている主人公自体も一種の豊かさを示している。

隣人は、早朝から轟音を発生させるマンローに文句を言う。しかし、マンローが草刈のかわりにガソリンで雑草に直接火をつける一種の奇行に出ても決定的に争うわけではなく、マンローの夢を知っており、それなりに応援している。また、同好の士と思われるクラブの連中は、マンローの誕生日に資金集めのパーティを開くなど夢に好意的。評判を聞いた暴走族が喧嘩をしかけてくるが、いざ米国に出発するとなれば餞別を持ってくる。年金を払い出す係の女性は結局マンローの彼女となるのだが、これも親切。簡単に言えば、ニュージーランドは親切で優しい人々の集まりである。夢を追うにはあまりに田舎に見えるが、情熱さえあれば優しい環境に守られることもできる。ここにはすでに豊かな生活があり、満ち足りているがゆえに優しく親切な人々がいる。

借金ができることが分かって突然船に乗ることになるマンローが、ロスアンジェルスに上陸して、米国との対比でニュージーランドを見直すことになる。車が右側通行になることでめちゃくちゃな運転をするという象徴的な場面に付随して、訛りの強いタクシー運転手からサービスが悪いのにチップを要求される。物価が高いこともあってまともなホテルに泊まれないが、まずその前で強引に花を売りつけられる。米国では旅行者にたかるものやら怪しいものが多く、物価も高く、優しく親切な世界との差が強く描かれる。

最初に親切にしてくれたのは、ホテルのフロントの女性だったが、実は女装の男性だった。マンローが誰も差別しない自然な態度をとることで、親しくなり、あれこれ世話をしてもらう。マイノリティがまず優しい。次に中古自動車の業者が、やはりメキシコから来たと思われるマイノリティだが、マンローの修理技術をかって親切にする。ここでは技術のあるもの、実力のあるものが認められることが分かる。旅の途中でマイノリティのアメリカ先住民、さらに寡婦、軍人などに親切にしたりされたりしてついに目的地に到着する。

目的地ではそもそもレースに登録していなかったことで、出場すら危ぶまれる。「マシンも搭乗者もポンコツ」とみなされるが、そこで出会ったみんなに尊敬されるジム・モファットと気が合うことで支援されてテストを受けることができる。また、奇特な金持ちのスポンサーもつく。結果として2輪車での世界最高記録を樹立することになる。

結果として、ニュージーランドはそれほど多く描かれないが、米国との対比の中で、豊かで優しく親切に満ち溢れた一種のユートピアとして描かれているともいえる。暴走族はいても根は優しいし、夢も希望もある。物価は高くないし、年金生活も適切に送れるようだ。それぞれ車も電話も持っていて、パーティもするしダンスも踊る。米国のように戦争の影(当時ベトナム戦争)もなく、マイノリティに囲まれることもない。魅力や技術があれば生き延びることができる米国とは似ているが異なるのがニュージーランドに見える。マンローもインバーカーギルという町の名を誇りを持って語るのである。