だってBだから

へんなおじさんたちのブログ。

Sunday, August 24, 2008

海辺のカフカ、を読んだ(NK)




村上春樹「海辺のカフカ」新潮文庫

村上春樹は「風の歌を聴け」「TVピープル」を読んだのだが、これは圧倒的に良い。小説というものをこれだけ拡張するとは、休むことなき仕事だ。

まず15歳の自称カフカが家出する。これは暗い奴なので読んでいて疲れるが、カラスという自分の分身との会話の自分を表現する。カラスはフランス語で「カフカ」だという。村上の分身は鼠だったりカラスだったりする。父親からあれこれと盗んでいくが、それがあとで「ジョニーウォーカー」と重なるとは衝撃だ。父親の姿は見えないようで、実は強烈な意味を持つ。

しかし、ナカタさんが出てくるまで、この小説はつかみにくい。戦争中の逸話が唐突に現れるが、そのなぞの置き方も読み取れない、カフカの家出の理由もつかめないまま読み進むときに多少読者に苦悶がある。だが、それはとにかくナカタさんが出てくるまでの我慢だ。このキャラクターが強烈でしかもあとあとの意味の高まりは特別だ。

後で考えてみると、それぞれの登場人物が、人間の一部分を意味しているのだ。ナカタさんと猫は現在だけ。佐伯さんは過去だけ。カフカ少年はすべてに不足している。父が見えず母と姉が(いるはずなのに)いない。しかも父に父を殺し母と姉と交わると予言されている。ここはギリシャ神話を下敷きにしたという意味で、小説に神話世界を作ろうとする試みが見える。

すべてが神話的に動いていく。人間にかけているものが「カーネルサンダース」や「入り口の石」やさまざまな形で現れる「兵士」(元自衛隊員のホシノ君も)に託される。猫と話ができる人であるナカタさんも神話的である。最後に猫と話してしまうホシノ君(跡継ぎ)も神話の世界にもぐりこむはめになるニンゲンというわけだ。四国を目指すのも神話的といえる。死後の世界を覗くような形でカフカは別世界に(森を抜けて)入り込む。それは大島さんのお兄さんと心が通う部分でもある。

人は完全になるために死ぬ。ナカタさんと佐伯さんはそれぞれ影が半分しかない、過去と未来の隠喩。ナカタさんは過去がないから字が読めてはいけない。佐伯さんは過去の象徴としての図書館で少女時代を生きている。本来別々ではいけない。人間の中には両方ある。それぞれ完全になるためにささやかな自覚を持って死ぬことになる。

ホシノ君はさまざまな目にあう中で次第に人間性を高めていく。ナカタさんに惹かれることは、現在をよりよく生きることに目覚めることの隠喩といえる。極意を得れば猫と話すこともできる。しかし過去を捨ててはいない。不良、自衛隊員とトラック運転手としての過去にそれほどこだわりもなさそうだが、祖父への想いとともに過去は確かにある。カフカの思索の先にあるものを大事にするだけでは、この小説の価値は低い。ホシノくんが後継者になるこの部分があってこそ、小説としての重層性は飛躍的に高まる。ある意味では別の小説にしてもいいような問題とストーリーをひとつに出してきたという意味で実に贅沢なのだ。

夢もさまざまに利用される。学校の先生が三回することとカーネルサンダースの手引きでホシノくんが三回することは偶然ではない。「帳尻を合わせ」ねばならない。帳尻を合わせること自体は神話的な要素であって人生の必然とは考えにくい。そのような宿命論がメインテーマではなさそうだ。ただ、どこかに不足があればどこかに過剰があるのだ。宗教的には輪廻に仮託することもできるのだろう。

大島さんは両性具有である点で典型的な神話性を持っている。単に女だということではなく、男であると自覚しながらオカマとして生きるという意味の重複。スフィンクスは両性具有でなぞをかけるが、大島さんは現実とカフカの間をとりもつ役割を演じる。

ジョニーウォーカーは過去に大きな傷を負った。妻に愛されなかった。それで現在に生きられなくなった。雷に当たったときに芸術性を持つにいたったとされるが、そこに現在を持っていたのかどうかよく分からない。しかし、過去に留まり現在をうらむことが、猫殺しの意味だ。そして現在の象徴であるナカタさんを通じて、過去のトラウマの具現化である息子の乗り移った形で殺される。残念ながらあの世に行っても死に切れない。死が完全をもたらさないケースもここで出てきてしまう。佐伯さんとの違いは、自分が失ったものに気づかなかったことなのだろうか。カラスに体を壊されることで、間接的に完全になろうとするといえるかもしれないが、本人は否定的だ。体を壊すしかない。しかしそれでも得るものはない。ここには絶望があるようだ。

カフカはこの父親の絶望のDNAを持って生きなければならない。だが、カフカはさまざまな救いを持っている。母と姉と会い、母と恋をし、間接的に父を殺し、直接的には15歳で父の問題を乗り越えたことになる。この小説の基本には、未来への希望がある。一直線に進まないストーリーの中に、さまざまな「生きること」がこめられ、将来は一直線ではなくさまざまな可能性があり、宿命的ではないことも示される。もっともタフな15歳になること、とは、絶望の中に生きた父や母を殺し犯すことで、神話的世界で乗り越えていくことだ。DNAの宿命論から自分を引き剥がし、自分を自分としてかけがえのないものとして認識することだ。

猫は人ではない。ナカタさんは人なので、猫に名前をつけないと覚えられない。本当に現在だけに生きるならば、名前も必要ないはずだ。猫は名前はいらない。それでもナカタさんは名をつけていく。そこに人間が残っている。ナカタさんは不完全な人間だが、人間であることが示唆されている。

村上春樹の文体は、最初のころにはアメリカ作家のようであり翻訳的であった。この小説でも、太宰治のような世界はない(どうも高校生までの文学教育(ひいては大学入試傾向)で日本人の小説観はゆがめられている)。村上は世界に通じる神話世界を作り出している。ただし、同時に四国、兵士、戦時中の学校、カーネルサンダース(見かけはアメリカ人)、高速バスといったさまざまな舞台装置の中に、国を超えた真理とローカルなドラマとを両立させた。

そう考えてみると、これも神話的だ。中身は人間と動物の際を描くものであり、人間の揺らぎは両性具有から過去のみ、現在のみといった影が半分の存在として表され、猫を殺したり親を殺したり子どもを作ったりしながら、様々な事態を引き起こさせる。神話は対外の場合、自分の周りに「むかし起こったこと」として表現される。その意味でローカルな風俗の中に描かれる。しかしその描く世界は、人が人であることを定義しようとすることだ。それは、男が男であること、少年が少年であること、などを包括している。人は宿命から自由になれる.

大島さんは単にガイドである。芸術、美術、音楽に詳しいが、特に人生に詳しいとは言えない。自分が問題を抱えた存在であるから、解決できないのだ。それに対して、ナカタさんはホシノくんを導く。現在しかないナカタさんは、自ら意識しないのに、あるいは意識しないから、人を導く。考えている人はまだ結論が出ていないというとらえ方もできる。ただ、その兄が何かをつかんでいることが示唆されて、大島さんもその近くにいることが期待される。

ナカタさんの存在がこの小説の深い意味につながる。構造として、これがあることが小説を読むエンタティンメント性を大きく高めている。さらに、設定が笑いを誘うし、展開も魅力的だ。こういう構築は、村上の最初のころには見当たらなかったが、拡大した境地だ。

一方で古くから使っているのが、明朝体とブロック体の使い分けであり、カラスの部分のページの飾りである。小説でありながら最初から見かけを駆使している。筒井康隆にもあるようなブロック体の使い方や音の表現は、日本の主流派からのはずれなのかもしれないが、小説の可能性を拡大するものと言える。

Sunday, August 10, 2008

映画を5つ観たがあまり心に残っていない(NK)

ナルニア物語 カスピアン王子の角笛
最初の物語はそもそも突然その世界(氷の女王が支配するナルニア)に投げ込まれて、落ち着かない次男が敵側に行くなど非常にうまくできた話だった。そのうえルーシーの魅力は炸裂(もっとも小さい女の子)。ところが、ここでは、次々と常識的な話が持ち込まれてしまうので、舞台が想像の範囲内であり、ルーシーはまあだいぶ年をとったといえ子どもの側を演じるが、上のふたりはこれが卒業旅行となることが示唆される。
カスピアン王子が吹く角笛は4人をロンドンの地下鉄の駅からナルニアに引き戻すが、カスピアンはすでに10代目の人間の王。人間たちはどこか次元の穴から出てきて住み着き、動物やらナルニアの民を森に追い出し(神話の世界にしてしまい)、人間同士で争っている。つまり設定が人間の政治やらに直結しており(シェークスピア時代の雰囲気で)、長女の恋がちょっとした色をつけることでさらに普通の映画である。きれいな絵はあるが、ほかにはあまりインパクトがないと思った。

隠し砦の三悪人
黒澤のリメイクだが黒澤らしさ、音楽や庶民好き?やそういう部分が新たな装いにならず、そのまま出てくるところが椿三十郎と同じでいまひとつ。役者や話は悪くないし絵はいかにも黒澤ライクで危なげがなく(そうならリメイクしなくてもいいかもしれない)、悪い映画ではない。ふーんなるほど、とは思えるが、黒澤監督が描きたかった世界を今の自分ならこう見せるといった趣向のほうが自分に合いそうだ。

アース
世界の自然を撮影する、1秒の絵に1年かけたくらいのすごい画面が出てくる。BBCらしく説教臭いコメントが最後につくが、まあそれは気にならない。絵は面白いところも多い。白熊のメスが2匹の子どもと巣穴から出てくるところが良かった。北極から南極までの旅をしてくれる。植物も出てくるが動物が見せ場が多い。ただ、なんというか意外に心に残る画面が少なかった。類似品を見すぎたのかもしれない。

アイアン・マン
漫画が原作とのこと。よくできた画像で特撮が良いし、アフガンの戦場シーンやゲリラ、村のイメージもリアル。しかし気に食わないのは、設定全体。兵器会社の天才二代目がMITを17歳で卒業し、エンジニアとして仕事しながら、一方である意味いいかげんに酒を飲みながら実務を先代のパートナーに任せてきた。しかしアフガンでゲリラが同じ自社商品を使っていることに気づいて(こんなことも考えにくいがブランドを大きく表示しているので)、心を入れ替え、戦争をとめるバトルスーツを作る。そういう改心の仕方や先代のパートナーの悪役ぶりがステレオタイプで、空を飛ぶメカのリアリティにも乏しい(それならスーパーマンくらい理屈抜きにしてほしい)。「続編を作ります」という終わり方も気に食わない。原作にも映画にも傲慢さを感じる。悪い意味でアメリカ的。

カンフーパンダ
アメリカ人の中国、カンフーへのイメージをそのまま漫画にしている上、主人公のパンダは要するに悪いアメリカ人(怠惰で太り、考えがなく直情的で、食べることが好きで目先のことしか考えない、みたいな)であるのに、そのままヒーローになれる。このくだらないレベルでのアメリカンドリームがどうも気に食わない。敵のほうはちょっとまし。もともと同じ師匠だったが守ってくれなかった、支持してくれなかったことで逆恨みした「弱さ」、怒りを逆手にとって強くなってしまった問題児であるところがよいキャラクター設定。ただ、あっけなくパンダに負けておしまい。パンダが食欲を利用して強くなるのは悪くないとはいえ、そんなのおかしいでしょ、っていう印象が残る。どこかで「気づき」があって自主的に変わっていかないといけないのでは。気づくのは「ラーメンのだしに秘密はない、だから秘密の空手の技もない」というあたりだけでは、ちょっとパンダがカンフーになるには不足がある。

僕の彼女はサイボーグ
SFとしては時間の概念がぐちゃぐちゃで、サイボーグが存在しなければその後の「彼女」の登場がありえないのに、それがあったこととしてサイボーグを作るという無限ループになっている。まあそれは良くある話で、うーん、とうなればすむことだ。サイボーグがだんだん精神的に育つように作ってあるため、最初のめちゃくちゃさに笑える。しかし要するに現在の日本の怖さ(交通事故、通り魔殺人、地震など)がどんどん出てきて、その辺がある意味本質的な部分。地震で失ったふるさと(神戸地震)を描いた後、東京が大震災に見舞われ本人が宝くじをあてて作らせたサイボーグは破壊される。しかし、その後自分がエンジニアになって作ることになるのだが(この辺はハインラインの「夏への扉」と似ている)。そして本当の人間の彼女は、男が死んだ後に生まれている。いろいろ考えてみると、現在とか存在とかめぐりあいとかを考えるヒントは豊か。地震の特撮は良くできているが、「あんなにほんとにそこらじゅうのビルが倒れる地震が想定されるのか?建物はそんなに弱いのか?」と思わせる。

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