だってBだから

へんなおじさんたちのブログ。

Monday, February 25, 2008

僕のピアノコンチェルト(NK)

スイス映画というところが面白い。天才ピアニストが実はピアノだけではなくてすべてのことで天才だというところがかわいそう。13歳で高校に行くが高校生がアホに見える。先生もアホに見えるのでいじめられるが、子供だし適応はできない。エンジニアの父親が役員である会社の危機になんとその息子は祖父の口座を使ってインサイダー取引のプットオプション買いで大もうけ。このときには天才性を失ったふりをして中学に通うが、13歳の友達に「株を取引する?株って邪悪(Evil)だろ?」と聞かれる。そう、スイスでは、株は一般人には「Evil」なのだ。この天才君は「別に悪くない、株は損失を出資額に限定しながら10倍儲かる可能性があるから」と全然次元が違う(高次元という意味ではないが、仕組みとして悪ではないといいたかったと解釈できる)ことを言う。また、危機の会社を創業者の息子が米国企業に売ろうとする。取締役会でお父さんは「アメリカ人に売るなんて最悪だ」と反対してクビになる。スイス人の感情的にはアメリカ人的経営は鼻持ちならないらしい。お父さんは自分の作った補聴器が売れたことがこの会社の拡大をもたらしたと信じるエンジニアなのでなおさらだ(エンジニアらしく子供の行動を隠しカメラで探ったりする親なんだが・・・ちなみにこの親夫婦の問題も取り上げると興味は尽きない。天才を与えられてしまった親は苦しい)。話のおちだが、子供が祖父の名義で暴れたたおした挙句市場の悪魔と呼ばれてネット取引で大もうけし、そのカネで父の会社を米国ファンドより高く買収。この買収は信じられない高値だったが、おりしも祖父が病死しその株は父親に引き継がれる。すっきりした子供は自分がピアニストになることを受け入れる。インサイダー取引がスタートだったことと天才なら儲けることができるという印象を与えることが問題だが、ストーリーとしては面白くできている。ただ、一番言いたいことは、非合理的な高額で買収したことは、マクロ的には資源の非効率配分だったことだ。これもPrivate benefitの典型例で、支配権が欲しくて(父親を社長にするために)買い捲ったのだから、高い株価でプライベート化してなんとオーナー企業にしてしまったという変形無理無理なMBOということだ・・。カネを活かしたから儲かったと祖父に説明していたが、子供の考えることなど所詮ファミリーの枠を出ないのだろう。ま、くれぐれも音楽映画的青春映画と観た方が良いが・・・。本物の少年ピアニストが演じており、その手のでかさに圧倒される。これだ、まずからだが天才なのだ。大人になったらどうでも良くなるのだが。

スイスでもアメリカでも(マゴリアムさんのおもちゃ屋はアメリカだ、USA Todayを読んでいる人がいたから--下を参照)、自分たちのロマンのために資本効率を低下させるということは「善」なのである。善をなすために経済効率を下げることを当然視することは、生活的視点では当然のことだろうが、本質的な善であるとはいえないのではないか。ふたつの映画について、その点が経済評論的に気になるところだ。経済的な善悪を定義することがそもそも難しく確立されていないが、最近の自分の考えるところとのずれを誰かに埋めて欲しいものだ。経済的な善と自然人としての善は二律背反ではないはずだ。対立軸にされてしまっては、そのこと自体が問題を悪化させる・・・。本当の善とは、自らの行うことに最大の努力をすることだという西田幾多郎の「善の研究」の発想だと両方カバーできる気がするのだが。おもちゃ屋は空を貸すことで、店にはより稼げないおもちゃを置いても良い。ピアニストも父親の会社を買わずに父に新しい会社を作らせたほうが適切な(良い映画になる)気がする。いや、おもちゃ屋のほうはみんなそのほうがいいとは受け付けてくれないだろうけど。

Martian Child(NK)

これは捨て子が悲しい、という話だが、アメリカ的に緩く作られている。実話に基づいているということが悲しいが、つまり捨て子は自分が火星から来たと信じて行動する。火星は良かった、迎えが来る、と。彼は自分を放置しておくと浮き上がると信じて、おもりを身に付けている。これは悲しい話で、自分が浮き上がるという象徴的な状態を実体化していると思ったほどだ(それほど解釈的な見方をする必要はないが)。生活の中ではギャグにまみれているのだが、育てようとする小説家も子供のころほとんど同種であったことが分かる。どんな子供もそういえばさまざまな空想と現実との折り合いをつけて暮らしている。現実が火星人ではないということに気付かねばならない厳しさは、やはり成長そのものの象徴と言える。捨て子の特殊な環境という悲しさ以上に、この点に悲しさと成長の寂しさと大人の誇り?を感じるということだろうか。錘がないと折り合いがつかない火星人は、結局8歳ほどにして、自分を受け入れる小説家を受け入れかつ自分が火星人では無いことを受け入れることになる。この結末自体の本質的な悲しさ(一見ハッピーエンド)というのは、成長の悲しみということなんだろう。そこに共感があるのだ。しかし、現在の米国は、養子が多いわけで(小説家の新しい彼女も)、こういう人たちがまた養子を育てていくうちに、なんかいろいろなものがバーチャル化していく気もする。もちろん養子は悪ではなくて善だが、その前の段階が問題で、日本でも増えている感触がある「子育て放棄」の拡大が、不要な悲しみの増殖につながるのだなと思った。普通の子供は普通に子供であることを捨てて小さく大人になる(周りと調整して生活することを受け入れる)ことを悲しめばすむのに。

マゴリアムおじさんの不思議なおもちゃ屋(NK)

映画としてはディズニー的子供向きを意識したものなんだろうが、最近気になる「事業価値」についての話題があった。つまりおじさんが死んで店を継がねばならないと指名された娘(単にアルバイト)が、自信がなくて店を売りに出してしまうところだ。店は予想以上に高くで売れることが分かる(価格提示)のだが、その理由は場所の無駄遣い(高いビルの狭間にあり日本風に言えば容積率が余っている?)。効率が低いおもちゃ屋であることは、担当会計士も分かっている。その会計士は、娘に価格提示について意見を求められて「会計士としては良いオファーで受け入れるべきと思うが、友達として売って欲しくない」と答える。これはファイナンス的に「Private benefit」を追求する経営者の姿を描いている。まさに経済合理性を捨てて「仁義(友や客の子供やおもちゃそのものへの気持ち)を貫け」と主張する映画である。もちろんこのオファーを断るために、娘が自信を取り戻す(魔法が使えるようになる、あるいは「信じる」)という筋があるわけだが、魔法が使えるので経済合理性を捨ててよいというのが、Kinki Bootsより出来が悪い部分だった(リアリティのできを競っていないことを知っているが)。Kinki Bootsは似た話だが結局不動産として再開発する以上の価値を生み出す可能性(確かではないが)を感じさせる靴屋再生ストーリーだったのだが。つまりこの場合の魔法は、おもちゃ屋の客と経営者のPrivate benefitに使われ、GDPには貢献しなかった。

もっとも、GDPに貢献しなければ悪という意味ではない。このおもちゃ屋はビルそのものも生き物なので、仕方ないのだ。生き物は大切にしなければ。立て直すのは悪だという気はする。いや、裏返せば、そんな魔法に満ちた場所くらいしか生き残れないともいえる。おもちゃ屋からわくわく感がなくなり、膨大な量の品物が積み上げられただけのスーパーとなってしまったことが問題だ。「急にいわなければ驚けないじゃないか」といったおじさんの考え方が通用しない合理的世界では、おもちゃなど売れないはずではなかったのか。魔法でもあればまあ生き残ってもいいが、そうでなければシャッター通りのおもちゃ屋同様店主の寿命と共に幕を閉じるのだ。そういえば、そうだ。そういう寂しさを忘れていた。その点を思い出させるという意味で、出来は良かったのかもしれない。子供が欲しいものはおもちゃそのものではない、とすれば、社会や教育や環境などすべてを善の観点から見直していかねばならない、と主張できる。おもちゃは魔法のようだから価値があるのだ。商品の価値は、魔法として売ることで上がる。金銭的な価値は同じでも意味は違う、そういいたかったとすれば、議論は一段階高まる。プチプチの上で踊るとプチプチ音がして面白いとか、そういうことに価値があり、それを信じることに価値がある。それを与えられる仕組みが偶然店であるとすれば、それには価値がある。ただ、高値で買おうとしためがねのおばさんにも意外に夢がある。このビルを大きくしてたくさんのテナントが入り、快適に仕事をする・・・。それも悪くないけどね。そのあたりの地価上昇の歯止めとなるかも知れず、より多くの給与が他の会社の従業員に入ることを促すのかもしれない。そういう発想に夢がないというのもまた夢がない。幸せはいろいろあるが、中所得者としては、所得は多いほど夢はある。子度にもおもちゃも買ってやれる・・・。いやはや、何が善だか分からない。いや、善悪も他の価値観もそうだが、二者択一ではない。さらに言えば、中庸がもっとも善かもしれない。西田幾多郎の例示で言えば粗野で乱暴な状態と臆病との間に「勇気」がある、というか、そんな感じ。どっちもうまく行くにはCSRか?いやそんな気はしないが。

エリザベス ゴールデン・エイジ(NK)

意外と良かった。CGによる海戦シーンが少々劇画的でかつ昔の海戦を描いた油絵に影響されすぎた感じがあり、もっと映画らしい面白さでやれたのではと思ったけど、売り物のファッションは面白いと思ったし、Scriptもいい感じだった。無駄に見えるファッションシーンもなんだか女王の寂しさを際立たせる効果があった気がした。スペイン人を悪役にして勧善懲悪にしたのはあまりいただけないところ。スペインのほうが実は宗教的道義心は強いわけで、領土的野心(娘を女王に)というのは少々リアリティにかけた(いやそのほうが本当かも知れないが、そうだとしてもあまり面白くない部分だった)。ただ、全体のバランスとしては、孤独で歪んだ女王生活、優しさと厳しさと気違いと気遣いがまぜこぜになった人間のリアリティとが伝わった。悲しいという意味で疲れるけど、良い映画という気がした。