だってBだから

へんなおじさんたちのブログ。

Saturday, July 26, 2008

「夏への扉」を読んだ(NK)


ハインライン「夏への扉」ハヤカワ文庫

冬と雪が嫌いな「ぼく」と猫は、雪が降るとそのうちどれかひとつの扉を開くと「夏」につながっていると信じている。順番に開いてみて雪が見えない扉を探してみる。それは、核戦争の後の話だが1970年である。1957年の原作であるから、その時点ですでにかなり先の話をしており、そして「ぼく」は2000年との間を行き来するはめにはる。

ハインラインは、「アイ、ロボット」のアシモフなどとならぶSF作家だが、この話は宇宙を駆け巡る「スターウォーズ」的大河ロマンとは程遠く、ビジネスに疎いエンジニアがだまされたり怒ったりしながら、最後にアメリカらしいハッピーエンドを迎えるストーリーと言える。人間を深く描くというよりも、「バック・トゥ・ザ・フューチャー」に近く娯楽的といってよい。70年には冷凍睡眠が実用化されており、自白剤があり、30年後にいまと同じ状態で生き返ることができる。またタイムマシンが極秘だが実用段階にもある。

ハインラインは、70年代に家事を手伝うロボットが開発され始めていることを想定している。技術についてはかなり楽観的だ。さらに、2000年には、それらがかなり発展していると想定する。奇妙な服を着ていて、プラスティックの硬貨を使っていると思っている。回路はチューブに入っていて、安くなった「金」を使うという方向で技術を見ていた。

現在、トランジスタはますます小さな回路となってICなどになり、プログラムはスパコンからPCまで、シリコンを材料に動き、金は相変わらず嗜好品ではある。しかし、技術者の基本は変わっておらず、猫と人の関係もたぶん描かれたとおりだろう。作者の意図せざる21世紀の読者の感想は、70年代と2000年はそれほどにも技術や人に断層がないことだ。そこが逆に70年ごろまであった鉄腕アトムの世界へのあこがれを思い出させる。成長の限界、行き場のない希望、内向的な「格差」確認社会(まあこれは特に日本の話だが)。

ただ、ハインラインは金融の厳しい21世紀をまるで言い当てた。冷凍睡眠を販売する保険会社の悪意による破綻は、エンロンや金融業の自己破壊的裏切りを奇妙にも予想し、当てた。きっと彼の想像の中では、重力コントロールに比べれば実につまらない部分だと思われるだけに、なんとも情けない。
それでも「夏への扉」は確かにあった。裏切られた「ぼく」はジョンと出会い、信頼して託し、30年後の約束はみごとに果たされる。そしてリッキイとの年の差は10歳ほども減って、すべてはまるく収まる。

「家族八景」を読んだ(NK)

筒井康隆「家族八景」新潮文庫

筒井康隆が40歳ごろの昭和49年の作品である。描いている8つの家庭の問題は、この年齢層に起こっている。彼はたぶん中年が嫌いだ。あるいは、俗物が嫌いだ(「俗物図鑑」という別の作品もある)が、中年に俗物が多いのだ。分かったような気になっているが、実は幼稚な心のままの大人が多すぎると怒っているのだ。8つの話の中で、18歳から20歳までの七瀬以外に好ましい人物は皆無といえる。だれもが多少の善意や好意と多大な悪意や怒りや苦しみを持っている。問題を避け、うまくいっているふりだけしてみせる。

もっとも七瀬は美しい心の象徴ではない。テレパスであることを隠すために、あるいは悪意を持っていた人間を攻撃するために、男を意識して狂わせ、子供を殺して自殺する女にきっかけを与え、火葬の直前に蘇生した女をそのまま焼かせて死なせる。これは決して倫理のアポリアなどではない。自分を探しながら自分を守ることは、この世代の攻撃への最大の理由となりうる。筒井はたぶん18歳の女も嫌いなのだ。

八つの話は独立した短編として発表されており、それゆえ別々の舞台を持っている。しかし、描かれているのは家族がお互いに隠しているお互いに対する嫌悪であることに変わりない。いや家族同士で嫌悪でなかったが、あまりの不潔さを七瀬が明示することで、嫌悪が生まれているケースもある。家族同士がふたをしてしまった「臭いもの」を他人が家庭に入ることで引きずりだす。それは嫁が「家」に入るときにもしばしば起こる現実の象徴だ。

昭和40年代の家族のあり方(いまより大家族が普通で、女中を使う記憶は残っており、お互いが近しく暮らしていた)がいまとはずいぶん違うものの、テレパスであれば大変な目にあうであろうという七瀬がお手伝いとして家庭を点々とすることのリアリティはいまもある。人の心には悪意のない悪意が存在していて、それをテレパスは直接見る羽目になる。

8つのストーリーは別々に生み出され、徐々に表現が強められる。最初の話では比較的普通の小説のように書かれ、それでも(・・)でくくられた攻撃的な意識が読者に殴りかかってくる。しかし、たぶん筒井は人間の意識がもっと同時にたくさんの似たような悪意や気持ちを持つことを表現しようとする。{・・}で(・・)をふたつくくって、同時に流れる意識を表現するという離れ技を出してくる。人の意識はあるときは抽象画のように四角や三角の集まりだったりもする。さまざまな記憶の断片であったりもする。それらを強烈な言葉の塊として読者に投げつけてくる。これは読むのが苦しい小説なのである。

「TVピープル」を読んだ (NK)

村上春樹はテレビが怖いに違いない。テレビは意図せずしていつのまにかそこにあり、得体の知れないものを「誰もが知っていなければならないもの」に変質させ、脳の働きを弱め、反抗をゆるさない。その上、個人の生活の中に入ってきていつのまにかそれを破壊し、しかもテレビ自身が個人の破綻を(たいして根拠もないのに)宣言すらしてくる。

TVはそこにあること自体でスイッチをいれさせる力を持っている。世界を縮小した画面、近くにいるのに遠くにいる、何かリアルのはずなのにリアルではないという居心地の悪さを与える。

さらに、違和感は、時計の音と飛行機にある。「タルップ・ク・シャウス」と時計は時を刻み続ける。TVピープルはそれをどこかへ持ち去ることはできなかった。いつのまにか時間が過ぎ去っていく。時計の音はリアルな人生に自分を引き戻そうとする意識の動きと同期する。しかし、彼らは、飛行機を見せてきた。短編の「飛行機-あるいは彼はいかにして詩を読むようにひとりごとを言ったか」でも、飛行機は違和感、得体のしれないものの象徴である。自分が乗っているのか、見ているのか、どこへ行くのか、どこかへ行こうとしているのか、よく分からないままに強い存在感を持つ。TVの中の飛行機は、飛行機のようで飛行機には見えないが、「これは飛行機だ」と信じさせられ、疑問を持つことを許されない。

TVピープルは会社にもいる。テレビは多くの会社の会議室や応接室に鎮座するが、なぜそこにあるべきなのか、よく分かっている人はいない。そんな会議室では、テレビ番組のような、空疎な会話が繰り広げられる。話した本人も内容を覚えていないのに、その内容が格好ばかりつける上司にほめられる。しかもそれに気づいてはならない。

そして、「奥さんは帰ってこない」こともリアリティとなってTVピープルから声明として伝えられる。そこには条理はない。だが、それは事実となりそうだ。個人の生活に間にいつのまにか入り込んでいる。結果として、言葉を失う、理由を失う、考えを失う、関係や意味を失う。不条理な結果を事実にして伝える。それほどテレビは怖いのである。