村上春樹「1Q84」を読んだ(NK)
村上春樹「1Q84」を読んだ
カフカほどの感動はなかった。その後小森陽一「村上春樹論」平凡社新書を読んだので、また少し見方が変わったのだが、それは1Q84の後の話なので、また今度。
1Q84はカフカと同様ふたつの主人公がまったく別々の話として展開し、その後徐々に近づいていく。カフカほどやわらかいナカタさん(もっとも本当はやわらかくないのだが)とシリアスな15歳の話ではない。1Q84に迷い込んだある意味殺し屋の女と予備校教師で小説家の卵の別々の話である。ふたりはそれぞれ相手を追い求めているところも、それぞれが実体であることも異なる。
女(青豆)は、宗教的な家庭におけるトラウマを抱え、男(天吾)は、怪しい小説の書き直しをする。ヤナーチェックのシンフォニエッタは、「歴史が人に示してくれる最も重要な命題は『当時、先のことは誰にもわかりませんでした』ということかもしれない」の象徴だ。ファシズムの始まりを意味するファンファーレである。青豆は歴史が好きで名前でリラックスできず世間を寛容に眺められなかった。タクシーの運転手は1Q84への入り口で「普通ではないこと」をすると日常の風景が違って見えるかもしれない、しかし現実というのは常にひとつきりだ、と語る。女は左右がいびつ。耳と胸。クールさとしかめた顔。友人が自殺したことがトラウマとなる。
それは殺し屋稼業への入り口でもあった。一人殺したあと満鉄の本を読む。日本がまさに植民地を広げようとするときである。殺人とのオーバーラップで言えば、「殺されて当然」というロジックと戦争や国家レベルでの侵略とのオーバーラップである。確かにこれ自体は矛盾や問題として青豆のなかで膨らむわけでもないことは批判されるところかもしれない。殺人のあとは性欲が高まる。殺人と性の直結を女性に起こさせることの一種の倒錯、あるいは一般化も批判されるところだろう。強姦ではないが、強要に近いほど強いアプローチを行う。
天吾は母親に逃げられていてカフカに近い。母親の痴態がフラッシュバックとなる一種の神経症。お前はここより他にいけないのだというメッセージの繰り返し。ふかえりの「空気さなぎ」という小説と出会っている。数学(透明になる)と小説(それが怖いときに)という異なるふたつを好む。小説は「存在を確かめる・再構築する」ものだと言う。
ふかえりはアイドルのイメージをもつのだろうが、まともに話せない。言葉を失い、親の暴力の対象といえなくもないが、そうでもない。敵になったことは確かだ。リトルピープルの意味をどう考えるかによるが、死んだヤギと一緒にさせられたことなどから独特の立場となる。見かけとは別に女としての機能がない。しかし「何か隙間をうめるもの」ではある。
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