海辺のカフカ、を読んだ(NK)
村上春樹「海辺のカフカ」新潮文庫
村上春樹は「風の歌を聴け」「TVピープル」を読んだのだが、これは圧倒的に良い。小説というものをこれだけ拡張するとは、休むことなき仕事だ。
まず15歳の自称カフカが家出する。これは暗い奴なので読んでいて疲れるが、カラスという自分の分身との会話の自分を表現する。カラスはフランス語で「カフカ」だという。村上の分身は鼠だったりカラスだったりする。父親からあれこれと盗んでいくが、それがあとで「ジョニーウォーカー」と重なるとは衝撃だ。父親の姿は見えないようで、実は強烈な意味を持つ。
しかし、ナカタさんが出てくるまで、この小説はつかみにくい。戦争中の逸話が唐突に現れるが、そのなぞの置き方も読み取れない、カフカの家出の理由もつかめないまま読み進むときに多少読者に苦悶がある。だが、それはとにかくナカタさんが出てくるまでの我慢だ。このキャラクターが強烈でしかもあとあとの意味の高まりは特別だ。
後で考えてみると、それぞれの登場人物が、人間の一部分を意味しているのだ。ナカタさんと猫は現在だけ。佐伯さんは過去だけ。カフカ少年はすべてに不足している。父が見えず母と姉が(いるはずなのに)いない。しかも父に父を殺し母と姉と交わると予言されている。ここはギリシャ神話を下敷きにしたという意味で、小説に神話世界を作ろうとする試みが見える。
すべてが神話的に動いていく。人間にかけているものが「カーネルサンダース」や「入り口の石」やさまざまな形で現れる「兵士」(元自衛隊員のホシノ君も)に託される。猫と話ができる人であるナカタさんも神話的である。最後に猫と話してしまうホシノ君(跡継ぎ)も神話の世界にもぐりこむはめになるニンゲンというわけだ。四国を目指すのも神話的といえる。死後の世界を覗くような形でカフカは別世界に(森を抜けて)入り込む。それは大島さんのお兄さんと心が通う部分でもある。
人は完全になるために死ぬ。ナカタさんと佐伯さんはそれぞれ影が半分しかない、過去と未来の隠喩。ナカタさんは過去がないから字が読めてはいけない。佐伯さんは過去の象徴としての図書館で少女時代を生きている。本来別々ではいけない。人間の中には両方ある。それぞれ完全になるためにささやかな自覚を持って死ぬことになる。
ホシノ君はさまざまな目にあう中で次第に人間性を高めていく。ナカタさんに惹かれることは、現在をよりよく生きることに目覚めることの隠喩といえる。極意を得れば猫と話すこともできる。しかし過去を捨ててはいない。不良、自衛隊員とトラック運転手としての過去にそれほどこだわりもなさそうだが、祖父への想いとともに過去は確かにある。カフカの思索の先にあるものを大事にするだけでは、この小説の価値は低い。ホシノくんが後継者になるこの部分があってこそ、小説としての重層性は飛躍的に高まる。ある意味では別の小説にしてもいいような問題とストーリーをひとつに出してきたという意味で実に贅沢なのだ。
夢もさまざまに利用される。学校の先生が三回することとカーネルサンダースの手引きでホシノくんが三回することは偶然ではない。「帳尻を合わせ」ねばならない。帳尻を合わせること自体は神話的な要素であって人生の必然とは考えにくい。そのような宿命論がメインテーマではなさそうだ。ただ、どこかに不足があればどこかに過剰があるのだ。宗教的には輪廻に仮託することもできるのだろう。
大島さんは両性具有である点で典型的な神話性を持っている。単に女だということではなく、男であると自覚しながらオカマとして生きるという意味の重複。スフィンクスは両性具有でなぞをかけるが、大島さんは現実とカフカの間をとりもつ役割を演じる。
ジョニーウォーカーは過去に大きな傷を負った。妻に愛されなかった。それで現在に生きられなくなった。雷に当たったときに芸術性を持つにいたったとされるが、そこに現在を持っていたのかどうかよく分からない。しかし、過去に留まり現在をうらむことが、猫殺しの意味だ。そして現在の象徴であるナカタさんを通じて、過去のトラウマの具現化である息子の乗り移った形で殺される。残念ながらあの世に行っても死に切れない。死が完全をもたらさないケースもここで出てきてしまう。佐伯さんとの違いは、自分が失ったものに気づかなかったことなのだろうか。カラスに体を壊されることで、間接的に完全になろうとするといえるかもしれないが、本人は否定的だ。体を壊すしかない。しかしそれでも得るものはない。ここには絶望があるようだ。
カフカはこの父親の絶望のDNAを持って生きなければならない。だが、カフカはさまざまな救いを持っている。母と姉と会い、母と恋をし、間接的に父を殺し、直接的には15歳で父の問題を乗り越えたことになる。この小説の基本には、未来への希望がある。一直線に進まないストーリーの中に、さまざまな「生きること」がこめられ、将来は一直線ではなくさまざまな可能性があり、宿命的ではないことも示される。もっともタフな15歳になること、とは、絶望の中に生きた父や母を殺し犯すことで、神話的世界で乗り越えていくことだ。DNAの宿命論から自分を引き剥がし、自分を自分としてかけがえのないものとして認識することだ。
猫は人ではない。ナカタさんは人なので、猫に名前をつけないと覚えられない。本当に現在だけに生きるならば、名前も必要ないはずだ。猫は名前はいらない。それでもナカタさんは名をつけていく。そこに人間が残っている。ナカタさんは不完全な人間だが、人間であることが示唆されている。
村上春樹の文体は、最初のころにはアメリカ作家のようであり翻訳的であった。この小説でも、太宰治のような世界はない(どうも高校生までの文学教育(ひいては大学入試傾向)で日本人の小説観はゆがめられている)。村上は世界に通じる神話世界を作り出している。ただし、同時に四国、兵士、戦時中の学校、カーネルサンダース(見かけはアメリカ人)、高速バスといったさまざまな舞台装置の中に、国を超えた真理とローカルなドラマとを両立させた。
そう考えてみると、これも神話的だ。中身は人間と動物の際を描くものであり、人間の揺らぎは両性具有から過去のみ、現在のみといった影が半分の存在として表され、猫を殺したり親を殺したり子どもを作ったりしながら、様々な事態を引き起こさせる。神話は対外の場合、自分の周りに「むかし起こったこと」として表現される。その意味でローカルな風俗の中に描かれる。しかしその描く世界は、人が人であることを定義しようとすることだ。それは、男が男であること、少年が少年であること、などを包括している。人は宿命から自由になれる.
大島さんは単にガイドである。芸術、美術、音楽に詳しいが、特に人生に詳しいとは言えない。自分が問題を抱えた存在であるから、解決できないのだ。それに対して、ナカタさんはホシノくんを導く。現在しかないナカタさんは、自ら意識しないのに、あるいは意識しないから、人を導く。考えている人はまだ結論が出ていないというとらえ方もできる。ただ、その兄が何かをつかんでいることが示唆されて、大島さんもその近くにいることが期待される。
ナカタさんの存在がこの小説の深い意味につながる。構造として、これがあることが小説を読むエンタティンメント性を大きく高めている。さらに、設定が笑いを誘うし、展開も魅力的だ。こういう構築は、村上の最初のころには見当たらなかったが、拡大した境地だ。
一方で古くから使っているのが、明朝体とブロック体の使い分けであり、カラスの部分のページの飾りである。小説でありながら最初から見かけを駆使している。筒井康隆にもあるようなブロック体の使い方や音の表現は、日本の主流派からのはずれなのかもしれないが、小説の可能性を拡大するものと言える。
村上春樹は「風の歌を聴け」「TVピープル」を読んだのだが、これは圧倒的に良い。小説というものをこれだけ拡張するとは、休むことなき仕事だ。
まず15歳の自称カフカが家出する。これは暗い奴なので読んでいて疲れるが、カラスという自分の分身との会話の自分を表現する。カラスはフランス語で「カフカ」だという。村上の分身は鼠だったりカラスだったりする。父親からあれこれと盗んでいくが、それがあとで「ジョニーウォーカー」と重なるとは衝撃だ。父親の姿は見えないようで、実は強烈な意味を持つ。
しかし、ナカタさんが出てくるまで、この小説はつかみにくい。戦争中の逸話が唐突に現れるが、そのなぞの置き方も読み取れない、カフカの家出の理由もつかめないまま読み進むときに多少読者に苦悶がある。だが、それはとにかくナカタさんが出てくるまでの我慢だ。このキャラクターが強烈でしかもあとあとの意味の高まりは特別だ。
後で考えてみると、それぞれの登場人物が、人間の一部分を意味しているのだ。ナカタさんと猫は現在だけ。佐伯さんは過去だけ。カフカ少年はすべてに不足している。父が見えず母と姉が(いるはずなのに)いない。しかも父に父を殺し母と姉と交わると予言されている。ここはギリシャ神話を下敷きにしたという意味で、小説に神話世界を作ろうとする試みが見える。
すべてが神話的に動いていく。人間にかけているものが「カーネルサンダース」や「入り口の石」やさまざまな形で現れる「兵士」(元自衛隊員のホシノ君も)に託される。猫と話ができる人であるナカタさんも神話的である。最後に猫と話してしまうホシノ君(跡継ぎ)も神話の世界にもぐりこむはめになるニンゲンというわけだ。四国を目指すのも神話的といえる。死後の世界を覗くような形でカフカは別世界に(森を抜けて)入り込む。それは大島さんのお兄さんと心が通う部分でもある。
人は完全になるために死ぬ。ナカタさんと佐伯さんはそれぞれ影が半分しかない、過去と未来の隠喩。ナカタさんは過去がないから字が読めてはいけない。佐伯さんは過去の象徴としての図書館で少女時代を生きている。本来別々ではいけない。人間の中には両方ある。それぞれ完全になるためにささやかな自覚を持って死ぬことになる。
ホシノ君はさまざまな目にあう中で次第に人間性を高めていく。ナカタさんに惹かれることは、現在をよりよく生きることに目覚めることの隠喩といえる。極意を得れば猫と話すこともできる。しかし過去を捨ててはいない。不良、自衛隊員とトラック運転手としての過去にそれほどこだわりもなさそうだが、祖父への想いとともに過去は確かにある。カフカの思索の先にあるものを大事にするだけでは、この小説の価値は低い。ホシノくんが後継者になるこの部分があってこそ、小説としての重層性は飛躍的に高まる。ある意味では別の小説にしてもいいような問題とストーリーをひとつに出してきたという意味で実に贅沢なのだ。
夢もさまざまに利用される。学校の先生が三回することとカーネルサンダースの手引きでホシノくんが三回することは偶然ではない。「帳尻を合わせ」ねばならない。帳尻を合わせること自体は神話的な要素であって人生の必然とは考えにくい。そのような宿命論がメインテーマではなさそうだ。ただ、どこかに不足があればどこかに過剰があるのだ。宗教的には輪廻に仮託することもできるのだろう。
大島さんは両性具有である点で典型的な神話性を持っている。単に女だということではなく、男であると自覚しながらオカマとして生きるという意味の重複。スフィンクスは両性具有でなぞをかけるが、大島さんは現実とカフカの間をとりもつ役割を演じる。
ジョニーウォーカーは過去に大きな傷を負った。妻に愛されなかった。それで現在に生きられなくなった。雷に当たったときに芸術性を持つにいたったとされるが、そこに現在を持っていたのかどうかよく分からない。しかし、過去に留まり現在をうらむことが、猫殺しの意味だ。そして現在の象徴であるナカタさんを通じて、過去のトラウマの具現化である息子の乗り移った形で殺される。残念ながらあの世に行っても死に切れない。死が完全をもたらさないケースもここで出てきてしまう。佐伯さんとの違いは、自分が失ったものに気づかなかったことなのだろうか。カラスに体を壊されることで、間接的に完全になろうとするといえるかもしれないが、本人は否定的だ。体を壊すしかない。しかしそれでも得るものはない。ここには絶望があるようだ。
カフカはこの父親の絶望のDNAを持って生きなければならない。だが、カフカはさまざまな救いを持っている。母と姉と会い、母と恋をし、間接的に父を殺し、直接的には15歳で父の問題を乗り越えたことになる。この小説の基本には、未来への希望がある。一直線に進まないストーリーの中に、さまざまな「生きること」がこめられ、将来は一直線ではなくさまざまな可能性があり、宿命的ではないことも示される。もっともタフな15歳になること、とは、絶望の中に生きた父や母を殺し犯すことで、神話的世界で乗り越えていくことだ。DNAの宿命論から自分を引き剥がし、自分を自分としてかけがえのないものとして認識することだ。
猫は人ではない。ナカタさんは人なので、猫に名前をつけないと覚えられない。本当に現在だけに生きるならば、名前も必要ないはずだ。猫は名前はいらない。それでもナカタさんは名をつけていく。そこに人間が残っている。ナカタさんは不完全な人間だが、人間であることが示唆されている。
村上春樹の文体は、最初のころにはアメリカ作家のようであり翻訳的であった。この小説でも、太宰治のような世界はない(どうも高校生までの文学教育(ひいては大学入試傾向)で日本人の小説観はゆがめられている)。村上は世界に通じる神話世界を作り出している。ただし、同時に四国、兵士、戦時中の学校、カーネルサンダース(見かけはアメリカ人)、高速バスといったさまざまな舞台装置の中に、国を超えた真理とローカルなドラマとを両立させた。
そう考えてみると、これも神話的だ。中身は人間と動物の際を描くものであり、人間の揺らぎは両性具有から過去のみ、現在のみといった影が半分の存在として表され、猫を殺したり親を殺したり子どもを作ったりしながら、様々な事態を引き起こさせる。神話は対外の場合、自分の周りに「むかし起こったこと」として表現される。その意味でローカルな風俗の中に描かれる。しかしその描く世界は、人が人であることを定義しようとすることだ。それは、男が男であること、少年が少年であること、などを包括している。人は宿命から自由になれる.
大島さんは単にガイドである。芸術、美術、音楽に詳しいが、特に人生に詳しいとは言えない。自分が問題を抱えた存在であるから、解決できないのだ。それに対して、ナカタさんはホシノくんを導く。現在しかないナカタさんは、自ら意識しないのに、あるいは意識しないから、人を導く。考えている人はまだ結論が出ていないというとらえ方もできる。ただ、その兄が何かをつかんでいることが示唆されて、大島さんもその近くにいることが期待される。
ナカタさんの存在がこの小説の深い意味につながる。構造として、これがあることが小説を読むエンタティンメント性を大きく高めている。さらに、設定が笑いを誘うし、展開も魅力的だ。こういう構築は、村上の最初のころには見当たらなかったが、拡大した境地だ。
一方で古くから使っているのが、明朝体とブロック体の使い分けであり、カラスの部分のページの飾りである。小説でありながら最初から見かけを駆使している。筒井康隆にもあるようなブロック体の使い方や音の表現は、日本の主流派からのはずれなのかもしれないが、小説の可能性を拡大するものと言える。