公園、を観た(NK)
家族を意識する映画のひとつ。公園で親同士が子供の結婚相手を探すのが最近中国ではやっていて、それを材料に家族の成り立ちを考えさせる。映画は雲南省が観光や省の紹介のために行うプロジェクトで女性監督に撮らせているもののひとつだそうだ。舞台は雲南省の昆明。いまの「どこにでもある地方都市」といえるのかもしれない。欧米のドラマと比べて食事シーンの意味が強く、また警官との会話なども含めて空気が日本と共通する部分もあるし、やはり空気が違うと思えるところもある。
設定がそもそも母親を早くになくして父と娘だけで暮らしてきたというところで一般化は難しいが、いくつか重要なポイントがある。ひとつは父親が年を取るほどに誰の役にも立たなくなっていくことと、それを自覚することでうつになるという流れはたぶん世界の先進国でどこででも起こっているのだ。次に、娘の結婚にあれこれ口を出そうとするが、そもそも結婚と恋愛とが相容れないことに気づく人が増えていることだ。そして最後に30歳近い大人でも実はもうひとつくぐりぬけるべきイニシエーションの関門が、いまどきの社会にはどこにでもできていることだ。それは、大人の庇護下にある子供が大人になる儀式のイニシエーションの次にある。
人が生きるための条件のひとつに「誰かの役に立つ」ことを自覚できることがあげられる。年を取ると趣味の時間ができるなどというが、趣味は仕事や実益があってこその対立概念であって、趣味だけで生きることはできない。たとえば趣味でも誰かに売れるとか誰かに感謝されるとかいう社会性がないと、生きがいにすることは難しい。年金生活になれば金銭的に趣味でいいが、仕事としてあるいは家族の世話として、誰かの役に立たねば生きていけない。感謝されるという意味ではない。親が子供に口出しするのは感謝されるからというよりも、役に立ちたいからだ。社会を離れ人と話す機会も減ればせめて子供の役に立つことが自分の仕事であり生きがいだと思いがちなのは仕方ない。この映画はそこを明確に認識した上で娘を訪ねてくる父親を描いているようだ。
公園は、しかしながら、奇妙な出会いがこれだけ社会で求められているという人間の奇妙さの象徴だ。結婚に特別な意味があり、恋愛の帰結ではなく社会とのかかわりだとして、みんなが認識しているのだ。だからこそ、親は知り合いの紹介や結婚相談所よりも自分の力を信じる。ここでの父親は、結婚とは家を持つことや所得を安定させることや子を育てることだ、と明確だ。人はこのようにも社会と交わる必要がある。年を取るとそこが自分に関して弱くなるからますますその本能を「孫が見たい」といった欲望に転化するのかもしれない。恋愛の帰結としてそのような適切な社会性がもたらされない(偶然でしかありえない)ことはたぶん多くの人が気づいている。人間が本能として持つ社会性の希求に対して、欧米風の「個人の意思」を強く尊重する考えは、社会的動物である人間にとって「不自然」なのだ。
これは、中沢新一風にいえば対称性の欠損だ。非対称的に個人の尊重だけを一神教的に求めれば恋愛結婚しかなく、離婚の頻発、夫婦の安定性などが犠牲として(とりわけ思想的に欧米化されたという意味での先進国において)供されることになる。あまりに個人の意思を尊重しなかった封建主義の反動が個人重視だとすれば、中国では「公園」での親の活動が、対称性回復の運動として起こっていると解釈できる。子供が恋愛に走るなら、親がリアリティを伝えねばと思うのだろう。しかし既存の社会が破壊されて「親戚の紹介」のようなお見合いも機能しない。お見合いというある意味共同社会での合意プロセスの典型のような方法論(共同体内部での地位のつりあい、本人たちの見かけ、学歴、興味などのバランス、周りの多くの人々が祝福できる組み合わせか、などが、多くの人に前もって目を通されることで自動的に調整されていく)は、東アジアに強く残っており(欧州などにも過去にあったのかもしれないが)違った形で回復しやすいのかもしれない。しかし、ドキュメンタリータッチ(監督はドキュメンタリーをパリで学んだという)で描く公園での両親たちの会話のリアリティはとんでもなくあちらこちらに飛び交う。出会いがしらに無理して作る共同体の力は弱く、血液型や星座、見かけを気にする人もいれば、学歴を問題にする人もいる。つまり需給の統合のない相対市場で、ディーラー機能もなく注文伝票がさまよい続ける状態になってしまう。
一方で、28歳で伝統的には行き遅れ寸前の娘は、自分の彼氏がまだ所得が安定しないこともあって特に反発せざるを得ない。大人になっているので自分の価値判断を曲げたくもない。しかしこちら側からみれば、まだ自分の地方テレビでのキャリアを変えたり一段上に上げたりできないでもない一方で、恋愛の失敗や離婚する友人も現れる。大人からの独立という意味で大人になったこの世代も、実は古風に言えば実現すべき自己がわからない状態にある。結婚するという社会への一種の貢献のようなことへもある程度本能的に好ましいと思いつつ、自分ができることややりたいこととの矛盾、さらにはそもそもお見合い相手が自分の普段つきあう人々と違うこと自体の違和感などが飛び交う。結婚とか家族を作るとかいうことが、いまの大人ではあるが個人として完全に自分の枠を持った状態からの大きなジャンプであることは古今東西を問わず明らかなのだ。
話としては、年下の彼氏の収入が安定しそうな一方で父親のうつ発症などもあって、ある意味で自然に生きることを選ぶ。父親と縁を切るのでもなく、やはり自分が父とふたりきりで暮らし育てられてきたことにも自然によい思いを寄せつつ、自分の仕事や恋愛もうまくやっていこうという対称的な自分を創ろうとしそうなところで終わる。
人が社会を構成する本能を持つ限り、きっと矛盾は起こり続ける。人間が自然と対称的に、あるいは包括的に暮らすことを捨てて自然と対峙し自己を確立しようとしてきたように、人間が家族を最低単位として社会を構成することに自己矛盾を常に持っている。そしてどちらかといえば、社会に反発し個人を重視する方向をよいものとしてきた。だが、突き詰めれば今の父親のように、個人として自由でもすることがないがゆえに、自ら家族を求め社会を求める。自由とは自然から切り離されることとすら言える。荒ぶる自然から人間は逃げることを大事にしてきたが、与える自然だけ切り出すことは難しいのだ。そこに妥協やより包括的な理解が求められる。求められてもそう機動的に対応できるとはいえないが。
設定がそもそも母親を早くになくして父と娘だけで暮らしてきたというところで一般化は難しいが、いくつか重要なポイントがある。ひとつは父親が年を取るほどに誰の役にも立たなくなっていくことと、それを自覚することでうつになるという流れはたぶん世界の先進国でどこででも起こっているのだ。次に、娘の結婚にあれこれ口を出そうとするが、そもそも結婚と恋愛とが相容れないことに気づく人が増えていることだ。そして最後に30歳近い大人でも実はもうひとつくぐりぬけるべきイニシエーションの関門が、いまどきの社会にはどこにでもできていることだ。それは、大人の庇護下にある子供が大人になる儀式のイニシエーションの次にある。
人が生きるための条件のひとつに「誰かの役に立つ」ことを自覚できることがあげられる。年を取ると趣味の時間ができるなどというが、趣味は仕事や実益があってこその対立概念であって、趣味だけで生きることはできない。たとえば趣味でも誰かに売れるとか誰かに感謝されるとかいう社会性がないと、生きがいにすることは難しい。年金生活になれば金銭的に趣味でいいが、仕事としてあるいは家族の世話として、誰かの役に立たねば生きていけない。感謝されるという意味ではない。親が子供に口出しするのは感謝されるからというよりも、役に立ちたいからだ。社会を離れ人と話す機会も減ればせめて子供の役に立つことが自分の仕事であり生きがいだと思いがちなのは仕方ない。この映画はそこを明確に認識した上で娘を訪ねてくる父親を描いているようだ。
公園は、しかしながら、奇妙な出会いがこれだけ社会で求められているという人間の奇妙さの象徴だ。結婚に特別な意味があり、恋愛の帰結ではなく社会とのかかわりだとして、みんなが認識しているのだ。だからこそ、親は知り合いの紹介や結婚相談所よりも自分の力を信じる。ここでの父親は、結婚とは家を持つことや所得を安定させることや子を育てることだ、と明確だ。人はこのようにも社会と交わる必要がある。年を取るとそこが自分に関して弱くなるからますますその本能を「孫が見たい」といった欲望に転化するのかもしれない。恋愛の帰結としてそのような適切な社会性がもたらされない(偶然でしかありえない)ことはたぶん多くの人が気づいている。人間が本能として持つ社会性の希求に対して、欧米風の「個人の意思」を強く尊重する考えは、社会的動物である人間にとって「不自然」なのだ。
これは、中沢新一風にいえば対称性の欠損だ。非対称的に個人の尊重だけを一神教的に求めれば恋愛結婚しかなく、離婚の頻発、夫婦の安定性などが犠牲として(とりわけ思想的に欧米化されたという意味での先進国において)供されることになる。あまりに個人の意思を尊重しなかった封建主義の反動が個人重視だとすれば、中国では「公園」での親の活動が、対称性回復の運動として起こっていると解釈できる。子供が恋愛に走るなら、親がリアリティを伝えねばと思うのだろう。しかし既存の社会が破壊されて「親戚の紹介」のようなお見合いも機能しない。お見合いというある意味共同社会での合意プロセスの典型のような方法論(共同体内部での地位のつりあい、本人たちの見かけ、学歴、興味などのバランス、周りの多くの人々が祝福できる組み合わせか、などが、多くの人に前もって目を通されることで自動的に調整されていく)は、東アジアに強く残っており(欧州などにも過去にあったのかもしれないが)違った形で回復しやすいのかもしれない。しかし、ドキュメンタリータッチ(監督はドキュメンタリーをパリで学んだという)で描く公園での両親たちの会話のリアリティはとんでもなくあちらこちらに飛び交う。出会いがしらに無理して作る共同体の力は弱く、血液型や星座、見かけを気にする人もいれば、学歴を問題にする人もいる。つまり需給の統合のない相対市場で、ディーラー機能もなく注文伝票がさまよい続ける状態になってしまう。
一方で、28歳で伝統的には行き遅れ寸前の娘は、自分の彼氏がまだ所得が安定しないこともあって特に反発せざるを得ない。大人になっているので自分の価値判断を曲げたくもない。しかしこちら側からみれば、まだ自分の地方テレビでのキャリアを変えたり一段上に上げたりできないでもない一方で、恋愛の失敗や離婚する友人も現れる。大人からの独立という意味で大人になったこの世代も、実は古風に言えば実現すべき自己がわからない状態にある。結婚するという社会への一種の貢献のようなことへもある程度本能的に好ましいと思いつつ、自分ができることややりたいこととの矛盾、さらにはそもそもお見合い相手が自分の普段つきあう人々と違うこと自体の違和感などが飛び交う。結婚とか家族を作るとかいうことが、いまの大人ではあるが個人として完全に自分の枠を持った状態からの大きなジャンプであることは古今東西を問わず明らかなのだ。
話としては、年下の彼氏の収入が安定しそうな一方で父親のうつ発症などもあって、ある意味で自然に生きることを選ぶ。父親と縁を切るのでもなく、やはり自分が父とふたりきりで暮らし育てられてきたことにも自然によい思いを寄せつつ、自分の仕事や恋愛もうまくやっていこうという対称的な自分を創ろうとしそうなところで終わる。
人が社会を構成する本能を持つ限り、きっと矛盾は起こり続ける。人間が自然と対称的に、あるいは包括的に暮らすことを捨てて自然と対峙し自己を確立しようとしてきたように、人間が家族を最低単位として社会を構成することに自己矛盾を常に持っている。そしてどちらかといえば、社会に反発し個人を重視する方向をよいものとしてきた。だが、突き詰めれば今の父親のように、個人として自由でもすることがないがゆえに、自ら家族を求め社会を求める。自由とは自然から切り離されることとすら言える。荒ぶる自然から人間は逃げることを大事にしてきたが、与える自然だけ切り出すことは難しいのだ。そこに妥協やより包括的な理解が求められる。求められてもそう機動的に対応できるとはいえないが。