だってBだから

へんなおじさんたちのブログ。

Sunday, October 05, 2008

公園、を観た(NK)

家族を意識する映画のひとつ。公園で親同士が子供の結婚相手を探すのが最近中国ではやっていて、それを材料に家族の成り立ちを考えさせる。映画は雲南省が観光や省の紹介のために行うプロジェクトで女性監督に撮らせているもののひとつだそうだ。舞台は雲南省の昆明。いまの「どこにでもある地方都市」といえるのかもしれない。欧米のドラマと比べて食事シーンの意味が強く、また警官との会話なども含めて空気が日本と共通する部分もあるし、やはり空気が違うと思えるところもある。

設定がそもそも母親を早くになくして父と娘だけで暮らしてきたというところで一般化は難しいが、いくつか重要なポイントがある。ひとつは父親が年を取るほどに誰の役にも立たなくなっていくことと、それを自覚することでうつになるという流れはたぶん世界の先進国でどこででも起こっているのだ。次に、娘の結婚にあれこれ口を出そうとするが、そもそも結婚と恋愛とが相容れないことに気づく人が増えていることだ。そして最後に30歳近い大人でも実はもうひとつくぐりぬけるべきイニシエーションの関門が、いまどきの社会にはどこにでもできていることだ。それは、大人の庇護下にある子供が大人になる儀式のイニシエーションの次にある。

人が生きるための条件のひとつに「誰かの役に立つ」ことを自覚できることがあげられる。年を取ると趣味の時間ができるなどというが、趣味は仕事や実益があってこその対立概念であって、趣味だけで生きることはできない。たとえば趣味でも誰かに売れるとか誰かに感謝されるとかいう社会性がないと、生きがいにすることは難しい。年金生活になれば金銭的に趣味でいいが、仕事としてあるいは家族の世話として、誰かの役に立たねば生きていけない。感謝されるという意味ではない。親が子供に口出しするのは感謝されるからというよりも、役に立ちたいからだ。社会を離れ人と話す機会も減ればせめて子供の役に立つことが自分の仕事であり生きがいだと思いがちなのは仕方ない。この映画はそこを明確に認識した上で娘を訪ねてくる父親を描いているようだ。

公園は、しかしながら、奇妙な出会いがこれだけ社会で求められているという人間の奇妙さの象徴だ。結婚に特別な意味があり、恋愛の帰結ではなく社会とのかかわりだとして、みんなが認識しているのだ。だからこそ、親は知り合いの紹介や結婚相談所よりも自分の力を信じる。ここでの父親は、結婚とは家を持つことや所得を安定させることや子を育てることだ、と明確だ。人はこのようにも社会と交わる必要がある。年を取るとそこが自分に関して弱くなるからますますその本能を「孫が見たい」といった欲望に転化するのかもしれない。恋愛の帰結としてそのような適切な社会性がもたらされない(偶然でしかありえない)ことはたぶん多くの人が気づいている。人間が本能として持つ社会性の希求に対して、欧米風の「個人の意思」を強く尊重する考えは、社会的動物である人間にとって「不自然」なのだ。

これは、中沢新一風にいえば対称性の欠損だ。非対称的に個人の尊重だけを一神教的に求めれば恋愛結婚しかなく、離婚の頻発、夫婦の安定性などが犠牲として(とりわけ思想的に欧米化されたという意味での先進国において)供されることになる。あまりに個人の意思を尊重しなかった封建主義の反動が個人重視だとすれば、中国では「公園」での親の活動が、対称性回復の運動として起こっていると解釈できる。子供が恋愛に走るなら、親がリアリティを伝えねばと思うのだろう。しかし既存の社会が破壊されて「親戚の紹介」のようなお見合いも機能しない。お見合いというある意味共同社会での合意プロセスの典型のような方法論(共同体内部での地位のつりあい、本人たちの見かけ、学歴、興味などのバランス、周りの多くの人々が祝福できる組み合わせか、などが、多くの人に前もって目を通されることで自動的に調整されていく)は、東アジアに強く残っており(欧州などにも過去にあったのかもしれないが)違った形で回復しやすいのかもしれない。しかし、ドキュメンタリータッチ(監督はドキュメンタリーをパリで学んだという)で描く公園での両親たちの会話のリアリティはとんでもなくあちらこちらに飛び交う。出会いがしらに無理して作る共同体の力は弱く、血液型や星座、見かけを気にする人もいれば、学歴を問題にする人もいる。つまり需給の統合のない相対市場で、ディーラー機能もなく注文伝票がさまよい続ける状態になってしまう。

一方で、28歳で伝統的には行き遅れ寸前の娘は、自分の彼氏がまだ所得が安定しないこともあって特に反発せざるを得ない。大人になっているので自分の価値判断を曲げたくもない。しかしこちら側からみれば、まだ自分の地方テレビでのキャリアを変えたり一段上に上げたりできないでもない一方で、恋愛の失敗や離婚する友人も現れる。大人からの独立という意味で大人になったこの世代も、実は古風に言えば実現すべき自己がわからない状態にある。結婚するという社会への一種の貢献のようなことへもある程度本能的に好ましいと思いつつ、自分ができることややりたいこととの矛盾、さらにはそもそもお見合い相手が自分の普段つきあう人々と違うこと自体の違和感などが飛び交う。結婚とか家族を作るとかいうことが、いまの大人ではあるが個人として完全に自分の枠を持った状態からの大きなジャンプであることは古今東西を問わず明らかなのだ。

話としては、年下の彼氏の収入が安定しそうな一方で父親のうつ発症などもあって、ある意味で自然に生きることを選ぶ。父親と縁を切るのでもなく、やはり自分が父とふたりきりで暮らし育てられてきたことにも自然によい思いを寄せつつ、自分の仕事や恋愛もうまくやっていこうという対称的な自分を創ろうとしそうなところで終わる。

人が社会を構成する本能を持つ限り、きっと矛盾は起こり続ける。人間が自然と対称的に、あるいは包括的に暮らすことを捨てて自然と対峙し自己を確立しようとしてきたように、人間が家族を最低単位として社会を構成することに自己矛盾を常に持っている。そしてどちらかといえば、社会に反発し個人を重視する方向をよいものとしてきた。だが、突き詰めれば今の父親のように、個人として自由でもすることがないがゆえに、自ら家族を求め社会を求める。自由とは自然から切り離されることとすら言える。荒ぶる自然から人間は逃げることを大事にしてきたが、与える自然だけ切り出すことは難しいのだ。そこに妥協やより包括的な理解が求められる。求められてもそう機動的に対応できるとはいえないが。

Saturday, October 04, 2008

転々、を観た(NK)


三浦友和(福原)が借金取立て、オダギリジョー(ふみや)が取り立てられる大学8年生、ふたりが東京を散歩する、と書くとわけのわからない筋だが、筋やバックストーリー的なものもよく作られている印象で面白い。いろいろな見方があるだろうが、これは家族を描く話、とも見ることができる。

三浦友和の福原は実は妻を殴り殺したばかりで、自首するために警視庁まで歩いていく。歩く理由、ふたりで行く理由もまああるのだが省略。ロードムービー的だが吉祥寺近辺から隅田川のほうまでいって桜田門まで戻ってくるだけの狭い範囲ではある。その間に、ふたりのこれまでの人生がざっとわかってくる。ふみやは本当の親に育てられていないとか、福原の妻はスーパーのパートだとか。かかわる場所にも行くが、下北沢のコスプレ地帯なども出てくる。それぞれが歩んだ場所やいってみたかった場所など探しながら歩く。その中で偽の家族を演じたことがある画家も出てくる。意味もなくギターを弾きながら歩く男も出てくる。しかし、最後に福原の偽の妻でもあるまきこ(小泉今日子)が出てきて、そこで偽というよりも2番目の妻として、ふみやを息子にし、まきこの姪を娘とする家族が一瞬できる。そのときカレーライスを食べる。

面白い「小ねた」はほかにもてんこ盛りだが、この瞬間的家族の構成が、ひとつの目的だったように見られる。4人でカレーを食べるという何の変哲もない瞬間に、ふみやは泣きたくならざるを得ない。それは自首の日が来たことを意味するからだ。ロードムービーとはいってもその行った場所そのものが大事とはいいがたい。その裏にある風景、ひとりひとりが持っている風景が大事だ。そして、そこにさらに意味を持たせるのが、個々人ではなく二人、三人でいることそのものだということだ。それは血がつながっているから家族になるのではない、家族になろうとしてなるものだ、とすら言い得る「本質」を感じさせる。ふみやにとってのジェットコースターの意味、それを福原をおやじと呼びつつ乗る意味、そのような描き方がうまくできている。

福原の妻が勤めていたスーパーの3人は狂言回しのみに徹するが、それが映画としてのどきどきさにもかかわるという裏技まで、「先に発見されたら自首にならない」の一言で意味が強まる。小泉今日子が「生まれ変わってもかばになりたくない」というような意味での一言の強さも出てくるが、関係性の中に意味を持たせる(村上春樹用語だけど)という観点から、せりふとぜんぜん関係ない場所で起こるシーンとの組み合わせを見せていく手法はうまいとしか言いようがない。たった一言で3人の狂言が全体にサスペンスを生み出すのだから。

西の魔女が死んだ、を観た(NK)


これは良くできた映画だった。原作を読んでいないが、たぶん十分伝えられたに違いない。魔女とは「良くできた人間」と置き換えると良いかもしれない。神でも仏でもない。修行もしないといけない。しかし一度魔術を覚えればよりよく生きることができる。そもそも生きなければならないのか、という疑問すら感受性の強い見習い魔女の主人公は思うわけだが、「死んだことがない」西の魔女だって本当の答えはない。不完全な人間が不完全な情報や知識や浅はかな考えを振りかざしながら人生を生きねばならない。

中学1年女子が学校で無視されて登校を拒否する。祖母が英国人、母がハーフ。みなそれなりに生きる場所を探す必要がある。本人はどうみても日本人だが、日本的女子ソサエティに入ることを拒否する。親に「扱いにくい」と言われて自分に自信を持てない。祖母が西の魔女として孫を預かる。そこでよき祖母に見守られて主人公が大人になる、というほど展開は単純ではない。そうなりそうにみせて、実は祖母が一番人間らしく傷つくことになる。そういうときはタバコも吸うし平手打ちもする。ただし修行した魔女には経験の積み重ねもあるし、自分を知ってもいる。できることだけをやり伝えることを伝えてこの世を去ることになる。

主人公は最初に学校から「逃げて」くる。それを意識しているのだが、そこから脱する部分と脱することのできない部分、キレる部分やら意志の弱い部分やらが出てくる。年齢にふさわしく自分のエリアを確固たるものにしたいという潔癖もある。それは成長の話と読むよりも、大人も含めて誰にでもある話と読むべきだろう。純粋に示すのに中学生が適当だっただけではないのか。西の魔女は、そのような自分を乗り越える幸せを伝えようとするが、そうできない自分を伝える必要も出てくる。最後まで人は乗り越えられない弱さや矛盾がある。

魔女になれば人に好かれる。嫌う相手には嫌われる。それも魔女が残し示すものではある。サンクチュアリを与えてくれるがそれが完璧に自分を守るものではないことも示される。娘はハーフで魔女になれていない。夫は亡くなっているがずいぶんと存在感がある。意外に冷たくない義父と父親の関係。余韻の残るタイプの映画だと思う。