ガルシア・マルケス「予告された殺人の記録」を読んだ(NK)
ガルシア・マルケス自身がノンフィクションとして書こうとしたという実際に起こった事件をもとにした小説。本人が傑作と考えているらしい。さまざまな立場と時間の交錯は独自の文体と言えるのだろう。
扱う内容は、つまり「予告することすらできる殺人」がなぜ存在しうるのか、という点にあり作家自身の友人が友人を殺害した、それを止められなかったという違和感が根底にある。殺人の理由は「名誉毀損」をチャラにするため。殺した双子の兄弟は反省することも無かった。スペイン語圏ではロルカの「血の婚礼」でも扱われる恋愛や結婚にまつわる殺傷事件でもあるし、最近イスラム圏で起こる兄弟による姉妹やその恋人へのリンチともつながる。もっとも、適切な相手を殺したのかすら真相は分からない。
妹が婚家から帰されてきたのは、他の男と関係があったことが分かったから、というのがスタートだが、その兄二人はそのまま放置しては自分の家の名誉が傷つくので相手として妹が名をあげた男を殺すことにする。しかし兄弟はそもそもまじめなのであって殺人など犯す必要も本来は無く、実は誰かにとめて欲しかったのではないかと思われるような行為を繰り返しつつ相手を探す。町中が結婚そのものと司教が来るという大きなイベントの中で多少狂ったタイミングでもある。まわりはそれほど深刻に取り上げなかったことを後悔することになる。
9.11の後のいまとなっては現代的問題であるかもしれないが、テロであれ戦争であれ死刑であれ、直接恨みがない相手への殺人が一種のアポリアとなって突きつけられる。あるいは「まさか」と思いながら見過ごしていく人々の生活が描かれる。この裏にはコロンビアという国のさまざまな問題や差別、憎しみ、ねたみなどがあることも示唆されるが、だからといってそこが珍しいとも言えない。一番奇妙で珍しいのは、誰もが当然と思うリンチとしての殺人が起こること、それを悲しいと思いつつとめられないこと、なのであろう。これは、中国を舞台に映画化されたほどにグローバルに普遍性がある。
日本には仇討ちというまた独特な世界があり、それを「天晴れ」などとしてしまった風土はあった(もちろん赤穂浪士の事件では国論を二分する?議論があったようだが)。仇討ちしなければならない武士の倫理のせいで国を追われるように旅立つ子どももいたらしい。だが日本人はやはりそのような問題を比較的個人的な世界での悲哀に変換してきた気がする。忠臣蔵という題名から仇討ち側に味方したのが世論の結論なのだろうが、それを描くドラマや小説が仇討ち自体を当然視し、それのためにがんばる姿を描きすぎてきた。社会が内包する殺人システムが人間を曲げたり違和感を与えたりしなかったのか。だれもがこのような解決を受け容れられたのか。例えば知識人はショックを受けなかったのか。そこに違和感を感じるこちらがおかしいのか。