島尾敏雄「水雷艇学生」新潮文庫
昭和60年に刊行された。島尾が大学を繰り上げ卒業してから特攻のため奄美に出発するまでを私小説的に描く。きわめて重要な点は、島尾の小説がそもそも反戦的ではないこと、逆に島尾自身の違和感は、自分が結果的に実戦経験がないことに発していることである。この違和感は一生続くことになろう。また、小説が描こうとしているのは、確かに死に向かう特攻という特殊な状態に起こる人間の心理にもある。だが、実際には特攻を志願する以前を主に描くこの小説において、よりクリアに示されることは、自分という存在の不確かさ、誰もが同じはずなのに気づかないか気づかないふりをしている不自然さや一貫性のなさ、不安定さにある。吉本隆明は「島尾敏雄」筑摩叢書で「違和」と呼ぶが、それが主題といえる。
「私」は昭和18年に海軍予備学生となり、まず旅順の教育部に赴く。自分がまとう第一種軍装は九軍神と同じでもある。ほんの数日前には普通の学生あるいは市民であった自分が服を着ただけで別のものになることを味わう。自分は、過去は捨てようという「奇体な」考えに取り付かれていた。タバコも断つことにした。仲間の不平が理解できず、かなり年長でもあり仲間と交わらず規則に従うことに努めた。そもそも変身しようと思うこと自体、主人公はそれまでの自分の生活や人生に違和感があったと思われる。
ここでは大学や高校教育を受けたものをひとつの鋳型に入れて以前と違うことを体に覚えさせねばならない。その目的には戦闘訓練や海軍体操などが適していた。誘導振は自分で進んで行う気持ちになれないが、強いられてそれをはじめるとやがて快い律動の中に入り込む自分を発見する。総員修正(頬を殴られる)も教官からみれば不細工だったろうと納得する。ただ、自分がもうすぐ士官となって戦闘を指揮できるのかという疑いは続く。
分隊監事は「軍隊に必要なのは全世界に普遍妥当であるような原理ではない。・・・(国を救う)真理は今日、目前の日常茶飯事の中に於いてしかない。」などと説教してひとりで百人以上殴る。考えてみれば、監事にしても大変な作業を行うことになる。また、殴られる「私」は監事に一個の泥酔者を見、悲しげな殉教者が重なる。殴られた瞬間は衝撃が走ったが、なぜかさばさばした気分になるのが自分でも解せない。その後、キャラメルの事件、にやついて殴打される事件、訓練、たまに思い出す学生時代の歴史で学んだこと、早駆けで弾んだ爽快感があったこと、など小さな事件の中の小さな違和感が繰り返しエピソードとして述べられる。
横須賀に移って、体は弾力的になり、肉も付き体重も増え、訓練で苦痛も減ってきた。足の傷で休んだこと、年長の下士官に対する自分の立場の違和感。28歳で「おっさん」と呼ばれ、食欲も相対的に小さい。こっそり食料を入手しているグループにも違和感を感じる。みんなが一生懸命に学ぼうとするときに自分が遠巻きにする。水雷学校で「私」は「長大なベルトコンベアーに身柄を預けているが如く、どこに運ばれていくかを知ろうともしなかった気がする」。「コンベアーの上の私に、霞の中から前触れも無く出現するかのように、事柄は突如としてあらわれる」。しかし、そうして現れた机上訓練で、私は「戦えそうな気分」になることができる。こういう場合、違和感を感じていないことが重要だ。
昭和19年4月に長崎県の川棚魚雷艇訓練所に移る。魚雷艇自体は海軍でも新しく伝統に乏しいことで「私」はある程度居心地がいいと感じている。魚雷艇は木造で生産能力も下がっている日本でまともに作れなかったのかもしれないが当事者たちはそのような情勢を知る由も無い。ただ「この私が果たして魚雷船が戦えるか」という疑いは訓練が進んでもなくならない。このようなある意味で誰もが日々の生活で感じるような違和感を続けるのである。
家族に見せる軍服姿は誇らしかった。体も強くなり「ちょっと信じられない程の変貌が横たわっていた」。自分の姿勢を父や妹に見せたかった。これほどに軍隊に馴染んでいたといえる。しかもそれは誇らしいものであって嫌悪ではない。希望して海軍に進んだこともあり、戦争そのものを批判できる環境にありながら特にそのような心情は浮かばない。日々の生活の中での違和感は、「娑婆」に戻れば単なる誇らしいものでしかない。国が起こした暴力である戦争や、人を殺す組織である軍隊に所属すること、さらには自分が死ぬかもしれないという恐怖などに「私」は意外なほどに近づいていかない。
実家でふだんの着物に着替えてみれば、頼りないことにすっかり元の自分に返ってしまう。死につながる確率が圧倒的に高い、という事実はのしかかってくる。しかしかって知ったる長崎に向かうことを「私」は歓迎しながら休暇を終える。川棚ではH大佐の颯爽たる容姿に心惹かれた(しかし軍人である状態を厭いながら)。違和感は、旗色が悪くなる戦局の中、訓練が劣弱なまま指揮官として号令の決断をすることにあった。劣った技術を度胸で補う確信は絶望に近かった。戦闘指揮官にならねばならぬ身を考えると無力を感じる。
ある日、特攻隊に志願することが認められた、と告げられる。戦争は時の経過とともに過激にならないわけにはいかず、「私」は、特攻戦法は日本人に似合ったやり方として認められる素地が準備されていたように思う。一晩考えて志望するか決めるようにといわれるが、実際に「何をどう考えいいかわからなかった」。からだが宙に浮く感じ、世界がぐらりと傾く感じを持つのだが、それは恐怖や怒りではなかった。実は志願するであろうことは話を聞きながら決めたようなものだったが、もうこの世を捨ててしまったという気持ちも出てくる。
特攻と決まった事態に、興奮し、日常に戻ることはできないという断絶の思いにせつなさがこみあげてきた。「自分がえらんだ不思議な立場」「神秘的」という言葉が浮かんでくる。昭和19年7月だった。家族に会うが、普通の家庭に羨望せず、赤ん坊や妹が先の世に生き延びるための犠牲になるという考えが強まる。
実際には特攻の武器などの準備はできておらず訓練もなく暇な日々となる。自分の命が安く見積もられたような気になり、貧弱なモーターボートがその兵器となることで落胆する。命を投げ出す決心をしたのだから、十分な兵器であるべきではないかと感じる。しかし命を捨てた以上、気が進まぬ結婚を承諾したかのような気分となる。それでも体当たりの運命を避けようなどとは考えない。
特攻要員は横須賀に行く前に勝手な行動をとり始める。これ以降、特攻要員という独特の立場が違和感を与えることになる。いずれ死に行くものの多少の放散な態度は有されるべきだとする趨勢が支配的になる。自分は仲間に気を許すことは無いのだが、技術士官を殴ったりする。曖昧さの中で行動した自分にすっきりしないと言いながら、意気揚々として引き上げる。
いよいよ艇隊長となり軍隊生活の中でにんげんの普段の関わりを無視できないことに気づく。世間事の様相が除外されること無くやってくる。世間的な経験さえない、しかも訓練が短縮された予備学生出身者が少尉となってしまっている。「私」はこのまま戦闘に臨めるのかというためらいが強まる。自分が自分のやり方に従おうとすれば、緩慢になる。さらに下士官が自分より情報を持ち経験もある。体格もよく予備学生出身を蔑ろにする。階級の差を使わないで攻略したいなどと考える。その直後転勤で再び川棚に向かう。
このときの違和感は、自分が最先端部隊を指揮しなければならないのにそのような行動がとれるかの迷いにあった。しかし昭和19年8月に川棚に移ってから2ヶ月で、それまでとちがった人柄に変化させられたと思うことになる。戦況の悪化で難民生活のようになる一方で、特攻兵器の実態を熟知すれば望みをかけることが夢のごときとなる。しかし、伝統が無いこと、新参者が増えること、ここが中継地でしかないことなど、全体的に蔓延する一種の違和感は、「私」を居心地良くする。
1-2ヶ月前までは魚雷艇の操縦も発射操作もままならなかったのが、いまは1個艇隊の艇隊長としてこっけいなくらい自信に満ちた表情で訓練を施している。指揮官としての呼吸を体得したようだった。特攻要員という終局的な重苦しさを除けば実はほっとしていた。魚雷艇ほど複雑ではなかったからだ。これほど楽な戦法はなかった。
海兵出身の指揮官が着任しないまま自らが隊長となり、逃げ出したいほどの重圧もあったが、一方で投げやりな放胆が芽生えてもいた。一方で、兵曹長たちとつきあうことで、娑婆の世間よりももっとあらわな世間が凝結している世界にも感じた。戦闘訓練は、夏の日の舟遊びのように頼りなかった。しかし快速を出して湾内を縦横無尽に疾走した快さで軽い興奮もあった。
180名あまりの部下を持つ隊長となってもすることはなく、無免許でトラックを運転して事故を起こしそうになったりする。さらに下士官を中心に見知らぬ軍人とけんかをし、隊長に抗議、殴ることになる。結局「私」は日本の典型的な軍人の世界に強い違和感もなく交じり合ってしまっていた。それでも違和感を持つのだが、行動だけみれば違和感などなさそうになっている。奄美大島で赤痢になった部下を預けるなどした後、基地に到着して終わる。
奥野健男(解説)によれば、この小説は昭和54年から60年まで「新潮」に掲載された。戦後40年近くたつまでこの時期のことは書かれていなかった。1964年「出発は遂に訪れず」の後記で作者は「そのあとさきのことも」書けないでいると告白している。それにしては緻密な構成と詳細にわたる記述は、鮮烈な記憶が作家の心に強く残っていることを示す。
ただ、奥野が述べるような意味で、この小説が「戦争小説」と呼ばれるべきかというと違うように感じる。われわれが思い浮かべる戦争小説とは、より人道主義的で人命尊重的であり、究極の部隊としての戦場でぎりぎりの選択をするような状況を使って戦争の無意味さや悲しさ、悲惨さを示そうとする。しかし、島尾敏雄の戦争小説は趣旨が違う。死を覚悟した、といいながら、小説の焦点は常にどこにでもある違和感にある。それを伝えたいのだと言いたげだ。
逆に、戦争というものが実に日常的に受け容れられた自分を後になって奇妙だと思っているようにも解釈できる。たぶん普通の軍国少年であった島尾が、どちらかといえば普通の生活や世間に出ないままそれに違和感を持って志願した。しかし、そこにもやはり世間があったり、一歩杖軍隊独自の奇妙な感覚、さらに「死」の側に立った特攻隊員としての奇妙に許されたことがらがある。島尾は戦争を描き、究極の特攻経験を描きながら、実は芝居を演じている自分を見るような視点を読者に提供している。
これは夏目漱石が「坑夫」で描いた「自殺しようとする自分が、蝿がたかった饅頭をいやがることに、我ながら奇妙だと思う」感覚と似ている。戦争が日常として受け容れられ、その中である程度優秀な成績を収め、全体的に駆逐されたり自分の居場所をなくしたりもしない。それどころか、将校としてよい目にもあう。
島尾の世界の恐ろしさは、何が違和感のもとにあるのか分からないことにある。そうだとすれば、人間が構成する国家、それが指導する戦争、殺人組織としての軍人、軍人の手柄と栄光、死の高い確率、肉体的訓練と「考え悩むこと」の限定、このような主題が全体を覆っているとみることもできる。それはまるで自分が学生として持ったであろう友人関係や、親子兄弟、さらには世間全体との関係と対置されている。どちらかがより幸せであるとかではなく、類似の違和感でしかない。社会にうまく適応していながら、常に感じ続ける「そうではないだろう」という違和。ひとりの人間が軍人でありながら詩人にもなれるという現実。その中での自分の選択の積み上げとその結果との違和感。
戦争の無いいまの日本においても、学生としてであれ労働者であれ日常に感じる違和感の積み重ねが、特攻要員においてすらあるということが恐ろしい。人間が死を含めて環境を受け容れることは実に簡単で、批判することも無く、まったく異なる違和感に苦しんだり生きること自体を感じたりする。
それは自己の揺らぎでもある。自分が絶望したわけでもないのに死を受け容れる。それを受け容れる瞬間は意外に瑣末でしかない。肉体が失われれば何もなくなるかもしれない。それでも自分の存在は、いまだつまらない日常の中にこそ見出すことができる。結局、人は人との関係の中に生きていて、崇高な個として生きているのではない。そのような方向からこそ島尾は命を見ている。