だってBだから

へんなおじさんたちのブログ。

Sunday, September 13, 2009

今年はゴーヤにトライしました。

今年は、2月中旬にぎっくり腰になり2ヶ月間は腰痛との戦いとなった。なかなか安心して体を動かせるようにはならず、腰痛はその後、やや治まったものの坐骨神経痛のため左足がずっとピリピリ、突っ張っている状況が続いた。
人生初の病気との向き合い。昨年、俄かなゴルフブームでちょっと無理をしすぎたかなとも反省。実は、老後の「趣味開発」ではないが、時間の使い方を意識して変化させることをこの2年間程度積み重ねてきており、ゴルフに正面から向き合うこともその一つであったのだ。
そのぎっくり腰だが、耐えている期間はさすがに何をする気も起きなくて、「健全な肉体に健全な精神が宿る」という言葉を実証するように、趣味開発も停滞し気味だったので、ベランダ菜園も草ぼうぼうで悲惨な状況となっていた。
奥さんがプランターの雑草を見かねて除草をしたのが7月。その後、腰の調子もハリ治療のかいもあって回復してくるとともに季節遅れとなったゴーヤを初めて試しに2苗購入した。毎朝水を出社前に撒き、8月には思ったよりもずーっと弦が伸び、ベランダには残暑をさえぎるちょっとした「緑のカーテン」が出現。上の写真はやっと収穫することができた小ぶりのゴーヤ、さっそくチャンプルーで美味しくいただきました。趣味開発の一つの柱がぐらつき、もうひとつの柱が出てきたって感じかな。

Labels:

Saturday, September 12, 2009

島尾敏雄「出発は遂に訪れず」を読んだ(NK)


島尾敏雄「出発は遂に訪れず」ちくま日本文学全集

昭和37年。戦後だいぶ経ってからの作品。「出孤島記」よりもさらに緻密で冷静な描写となっている。「出孤島記」の最後に近い8月13日から記述される。発信の合図がいっこういかからぬ、近づいてきた死はその歩みを止めている。

自分が死ぬというきっかけが、敵の指揮者の気まぐれな操舵や味方の司令官のあわただしい判断とにかかっているかもしれないことに「底知れぬ空しさ」を感じる。はぐらかされた不満と不眠のあとの倦怠がある。攻撃命令を待ちながら、太陽が昇っていくと、その新しい日が「私には理解できない」と感じる。いったん死の側に行ってしまうことで、奇妙な感覚に襲われる。生きて戻らない突入がその最後の目的である日々が重なりすぎていたと思う。やり場の無い不満は、矛盾したものに違いない。

「出孤島記」の最後に出てきた新たな日の日常の些細な行動の束は、ここでは、「余分なつけ足し」「無意味なつみ重ね」「死の完結が美しさを失う」ものになる。きおいたつ自分のきまじめな要求は「貸し金の催促」のようなものとなったように感じられる。出撃しない自分は「光栄を自分のものにしていない」。

「私」は死を嫌悪しているのだが、それが遠ざかると「眠り」や「空腹」などの生のむずがゆさがはたらきはじめて、死ぬのに睡眠や食欲がなくならなことが「虚無におしやる」。なかなかこない出発命令で、生きる可能性を感じ始めているのかもしれない。自分の中で分裂が生まれてくる。出発の日を待っていた自分が不発のまま待たされていることで、「生のいとなみ」が億劫となる。

部落の慰問を代表者だけで受け容れることにする。そこに見栄の笑いが求められる。一時的に生の側と関わるが、日が翳ったとたんに、「もとの断絶」が横たわる。何の連絡も無かったことのほうに気がいってしまう。そして「こちらの側」に取り残される。

他の作品では明確ではなかった死と生の区別と違和感がここには明示される。「生の世界の方にまだ何かいっぱいし残したままのうしろ向きの気持のずれ」や逆に「ないがしろにされた感情」などが交錯し、生き残ったとしても違和感が残るだろうと予感する。死の直前の恐怖は「事故」のような死ではなくなるし、生への執着が起きないうちに出発できる、など、死や生を直接的に語る部分がある。

14日の真夜中近くに指揮官を防備隊に集める命令が来る。「まじめな態度を求めながら応ずるとまじめ過ぎたおかしさを嘲笑する世間のやり口で」緊張をあざ笑われたように感じる。8月15日に歩いて防備隊に向かう。途中「戦争は終わったのかもしれない」と感じ始める。生き残れるかもしれないと思うとからだがあつくなる。近くにトエがいるように感じたのは、いわば生の側に近づいたことを象徴する。からだ全体を包み込んでくる女性的なものがまといついたと言う。生きることは女性的だという直観がある。そして日本は降伏したことを直観する。

正午の放送はよくききとれなかたが、司令官から無条件降伏を受け容れたことを伝えられる。そして勝手な行動に出ないようにと諭されて、自分がそれだけの権限を持っていることに気づく。だが特攻出撃の決意を発表したらどうなるかなどと考えつつもそうしない。それは栄光につつまれているように見えたにもかかわらずである。言いようの無い寂寥がおそい、生きる側に戻ったのに生きる世界が色あせてありふれたものにしぼんでしまう。

最後に下士官に一種のいやみを言われた形になり気持ちがふさぐ。毒を仰ぐという思いつきに、せっかく生きられるようになったのに、それを自分の手にするまでにまだ難関が横たわっていると思いがっかりする。それでも徐々に戦闘状態から抜け出そうとするところで終わる。

島尾敏雄「出孤島記」を読んだ(NK)

島尾敏雄「出孤島記」ちくま日本文学全集

これが聖書の「出エジプト」を意識して書かれたのか分からないが、昭和24年には、「島の果て」に描かれた「メルヘン」をより自分自身の手による心理の写生になってきている。

島の基地に配備された後爆撃に悩まされるが、それが3日ばかり来なくなったところから始まる。その特攻艇は目標直前で離脱してもよいことになっていたのだが、一緒に敵の船にぶつかってやろうと「その他にどんな道も自分に許されていない」と思い込んでいた(それは後になってみると不思議に思える)。

さらに本土との輸送路は断たれ、エンジンはさびつき、船体はくさりつつあった。自殺艇が置くかを発揮するにはある時期のうちに使用されねばならない。敵にさえ見放された気になる。この意味で(特攻がいやとかではなく)自分は「無理な姿勢でせいいっぱい自殺艇の光栄ある乗組員であろうとする義務に忠実であった」。義務や「栄光」に違和感がなく、せいぜい装備や環境への不満がある程度だった。

「おそろしいこと」に自分の部隊の性格が「私」の性格に似ている。自分の体臭が消しがたく、しかも自分はその体臭を望んでいない。このような違和感とおそろしさが、当面の問題だった。

すでに特攻隊員の自分は、原爆投下の知らせも時間の流れの中で受け止めていない。時間は止まっていて「日に日に若くなっていった」とすら感じる。それは「死んだ側」にいたからと見ることもできる。「昨日は今日に続かず。そしてまた今日は明日に続いていきそうも無い。」さらに原爆の知らせは「楽に死ぬことができそうだ」とこっそり感じた。「なおあがいてみせろとは要求してこないだろう」と感じた。「だれかの命令にこだわり、その命令に忠実であろうとした」。命令に違和感はなく、うまくいくことにこだわったということだ。しかし原爆の前ではどんな命令もおそらくナンセンスにも思われてくる。命令や命令を出すものに疑いを持ってはいた。

三日間の静寂の後、夏の暑さ、潮の香り、鳥や蛙の鳴き声などが自分の周りにあることをあらためて強く感じた。訓練は船を傷めるので回数を減らし、芋を作るようになる。ただ、乗組員と本部要員などとの間に対立が起こり、乗組員には特権のような意識も出ていた。

隊長としての自分は、自殺艇の効果が疑わしく、戦局の末期的現象を感じ、他の士官の強い自己主張やただ命令を待つだけの生活により食欲が減退していた。なんとなく戦争の終結が予想されなくも無い状態だった。

一方で、深夜に基地を抜け出してNと会うようになる。「島の果て」で描かれたメルヘン的状況の裏で、非難するものと許容するものとが分かれてくることも描かれる。そして48人もの自殺艇を引き連れて出撃の命令をする自分がある。ただ、浜辺の石ころを伝いながら歩く「私」は何も考えていない「私は土偶に過ぎない」。確かにまだ生きていることを喜んでいるともいえるが、「考えない自分」がいることでかろうじて自分の心理の統合・バランスを保っているのかもしれない。死ぬことを命令された自分が時が止まった死の世界にすでにおり、一方で生きている世界のNと会う。そこにはかないバランスはあった。

ただ、もうすぐ出撃の可能性が感じられる中、もし1艇隊を出すとしたらV少尉を先に出すという考えが「ある快感を伴って誘惑してくる」。そこに出撃命令が来る。しかし1艇隊を出す命令であった。そこで「私が先陣をつとめましょう」と言う。そういう自分に皮肉や自分の隊員への罪の意識などを感じる。もっとも次の命令で全員出動となり「験されている」と感じるが、なにごともなく出撃準備となる。

この身のいとおしさを感じる。しかしそれはNとの関係においてである。発狂したNが兵火の犠牲となって死ぬことを望む。しかしまた雑草の如く生き延びることも同時に願う。それでも徐々に平常な気持ちを取り戻す。「私」が感じるのは「何という人間事のせせこましさ」「たくさんの拘束の環のがんじがらめで、今宵奇妙な仕事を遂行しようとしている自分」であった。小さな事故が起こるが、犠牲は無い。隊員の奇妙な精神状態のひとつの象徴でしかないようだった。

そこにNが現れたと知らせられる。演習だと言い聞かせて戻るのは「島の果て」と比べれば些細なエピソードとして切り捨てられる。その後待機のまま時間が過ぎる。昼間の出撃がないため、夜明けとともに慰問の申し込みをどうするか、Nに手紙を書くか、入浴するか、あるいは髭を剃るかといった日常が戻ってくるところで終わる。

島尾敏雄「水雷艇学生」を読んだ(NK)

島尾敏雄「水雷艇学生」新潮文庫

昭和60年に刊行された。島尾が大学を繰り上げ卒業してから特攻のため奄美に出発するまでを私小説的に描く。きわめて重要な点は、島尾の小説がそもそも反戦的ではないこと、逆に島尾自身の違和感は、自分が結果的に実戦経験がないことに発していることである。この違和感は一生続くことになろう。また、小説が描こうとしているのは、確かに死に向かう特攻という特殊な状態に起こる人間の心理にもある。だが、実際には特攻を志願する以前を主に描くこの小説において、よりクリアに示されることは、自分という存在の不確かさ、誰もが同じはずなのに気づかないか気づかないふりをしている不自然さや一貫性のなさ、不安定さにある。吉本隆明は「島尾敏雄」筑摩叢書で「違和」と呼ぶが、それが主題といえる。

「私」は昭和18年に海軍予備学生となり、まず旅順の教育部に赴く。自分がまとう第一種軍装は九軍神と同じでもある。ほんの数日前には普通の学生あるいは市民であった自分が服を着ただけで別のものになることを味わう。自分は、過去は捨てようという「奇体な」考えに取り付かれていた。タバコも断つことにした。仲間の不平が理解できず、かなり年長でもあり仲間と交わらず規則に従うことに努めた。そもそも変身しようと思うこと自体、主人公はそれまでの自分の生活や人生に違和感があったと思われる。

ここでは大学や高校教育を受けたものをひとつの鋳型に入れて以前と違うことを体に覚えさせねばならない。その目的には戦闘訓練や海軍体操などが適していた。誘導振は自分で進んで行う気持ちになれないが、強いられてそれをはじめるとやがて快い律動の中に入り込む自分を発見する。総員修正(頬を殴られる)も教官からみれば不細工だったろうと納得する。ただ、自分がもうすぐ士官となって戦闘を指揮できるのかという疑いは続く。

分隊監事は「軍隊に必要なのは全世界に普遍妥当であるような原理ではない。・・・(国を救う)真理は今日、目前の日常茶飯事の中に於いてしかない。」などと説教してひとりで百人以上殴る。考えてみれば、監事にしても大変な作業を行うことになる。また、殴られる「私」は監事に一個の泥酔者を見、悲しげな殉教者が重なる。殴られた瞬間は衝撃が走ったが、なぜかさばさばした気分になるのが自分でも解せない。その後、キャラメルの事件、にやついて殴打される事件、訓練、たまに思い出す学生時代の歴史で学んだこと、早駆けで弾んだ爽快感があったこと、など小さな事件の中の小さな違和感が繰り返しエピソードとして述べられる。

横須賀に移って、体は弾力的になり、肉も付き体重も増え、訓練で苦痛も減ってきた。足の傷で休んだこと、年長の下士官に対する自分の立場の違和感。28歳で「おっさん」と呼ばれ、食欲も相対的に小さい。こっそり食料を入手しているグループにも違和感を感じる。みんなが一生懸命に学ぼうとするときに自分が遠巻きにする。水雷学校で「私」は「長大なベルトコンベアーに身柄を預けているが如く、どこに運ばれていくかを知ろうともしなかった気がする」。「コンベアーの上の私に、霞の中から前触れも無く出現するかのように、事柄は突如としてあらわれる」。しかし、そうして現れた机上訓練で、私は「戦えそうな気分」になることができる。こういう場合、違和感を感じていないことが重要だ。

昭和19年4月に長崎県の川棚魚雷艇訓練所に移る。魚雷艇自体は海軍でも新しく伝統に乏しいことで「私」はある程度居心地がいいと感じている。魚雷艇は木造で生産能力も下がっている日本でまともに作れなかったのかもしれないが当事者たちはそのような情勢を知る由も無い。ただ「この私が果たして魚雷船が戦えるか」という疑いは訓練が進んでもなくならない。このようなある意味で誰もが日々の生活で感じるような違和感を続けるのである。

家族に見せる軍服姿は誇らしかった。体も強くなり「ちょっと信じられない程の変貌が横たわっていた」。自分の姿勢を父や妹に見せたかった。これほどに軍隊に馴染んでいたといえる。しかもそれは誇らしいものであって嫌悪ではない。希望して海軍に進んだこともあり、戦争そのものを批判できる環境にありながら特にそのような心情は浮かばない。日々の生活の中での違和感は、「娑婆」に戻れば単なる誇らしいものでしかない。国が起こした暴力である戦争や、人を殺す組織である軍隊に所属すること、さらには自分が死ぬかもしれないという恐怖などに「私」は意外なほどに近づいていかない。

実家でふだんの着物に着替えてみれば、頼りないことにすっかり元の自分に返ってしまう。死につながる確率が圧倒的に高い、という事実はのしかかってくる。しかしかって知ったる長崎に向かうことを「私」は歓迎しながら休暇を終える。川棚ではH大佐の颯爽たる容姿に心惹かれた(しかし軍人である状態を厭いながら)。違和感は、旗色が悪くなる戦局の中、訓練が劣弱なまま指揮官として号令の決断をすることにあった。劣った技術を度胸で補う確信は絶望に近かった。戦闘指揮官にならねばならぬ身を考えると無力を感じる。

ある日、特攻隊に志願することが認められた、と告げられる。戦争は時の経過とともに過激にならないわけにはいかず、「私」は、特攻戦法は日本人に似合ったやり方として認められる素地が準備されていたように思う。一晩考えて志望するか決めるようにといわれるが、実際に「何をどう考えいいかわからなかった」。からだが宙に浮く感じ、世界がぐらりと傾く感じを持つのだが、それは恐怖や怒りではなかった。実は志願するであろうことは話を聞きながら決めたようなものだったが、もうこの世を捨ててしまったという気持ちも出てくる。

特攻と決まった事態に、興奮し、日常に戻ることはできないという断絶の思いにせつなさがこみあげてきた。「自分がえらんだ不思議な立場」「神秘的」という言葉が浮かんでくる。昭和19年7月だった。家族に会うが、普通の家庭に羨望せず、赤ん坊や妹が先の世に生き延びるための犠牲になるという考えが強まる。

実際には特攻の武器などの準備はできておらず訓練もなく暇な日々となる。自分の命が安く見積もられたような気になり、貧弱なモーターボートがその兵器となることで落胆する。命を投げ出す決心をしたのだから、十分な兵器であるべきではないかと感じる。しかし命を捨てた以上、気が進まぬ結婚を承諾したかのような気分となる。それでも体当たりの運命を避けようなどとは考えない。

特攻要員は横須賀に行く前に勝手な行動をとり始める。これ以降、特攻要員という独特の立場が違和感を与えることになる。いずれ死に行くものの多少の放散な態度は有されるべきだとする趨勢が支配的になる。自分は仲間に気を許すことは無いのだが、技術士官を殴ったりする。曖昧さの中で行動した自分にすっきりしないと言いながら、意気揚々として引き上げる。

いよいよ艇隊長となり軍隊生活の中でにんげんの普段の関わりを無視できないことに気づく。世間事の様相が除外されること無くやってくる。世間的な経験さえない、しかも訓練が短縮された予備学生出身者が少尉となってしまっている。「私」はこのまま戦闘に臨めるのかというためらいが強まる。自分が自分のやり方に従おうとすれば、緩慢になる。さらに下士官が自分より情報を持ち経験もある。体格もよく予備学生出身を蔑ろにする。階級の差を使わないで攻略したいなどと考える。その直後転勤で再び川棚に向かう。

このときの違和感は、自分が最先端部隊を指揮しなければならないのにそのような行動がとれるかの迷いにあった。しかし昭和19年8月に川棚に移ってから2ヶ月で、それまでとちがった人柄に変化させられたと思うことになる。戦況の悪化で難民生活のようになる一方で、特攻兵器の実態を熟知すれば望みをかけることが夢のごときとなる。しかし、伝統が無いこと、新参者が増えること、ここが中継地でしかないことなど、全体的に蔓延する一種の違和感は、「私」を居心地良くする。

1-2ヶ月前までは魚雷艇の操縦も発射操作もままならなかったのが、いまは1個艇隊の艇隊長としてこっけいなくらい自信に満ちた表情で訓練を施している。指揮官としての呼吸を体得したようだった。特攻要員という終局的な重苦しさを除けば実はほっとしていた。魚雷艇ほど複雑ではなかったからだ。これほど楽な戦法はなかった。

海兵出身の指揮官が着任しないまま自らが隊長となり、逃げ出したいほどの重圧もあったが、一方で投げやりな放胆が芽生えてもいた。一方で、兵曹長たちとつきあうことで、娑婆の世間よりももっとあらわな世間が凝結している世界にも感じた。戦闘訓練は、夏の日の舟遊びのように頼りなかった。しかし快速を出して湾内を縦横無尽に疾走した快さで軽い興奮もあった。

180名あまりの部下を持つ隊長となってもすることはなく、無免許でトラックを運転して事故を起こしそうになったりする。さらに下士官を中心に見知らぬ軍人とけんかをし、隊長に抗議、殴ることになる。結局「私」は日本の典型的な軍人の世界に強い違和感もなく交じり合ってしまっていた。それでも違和感を持つのだが、行動だけみれば違和感などなさそうになっている。奄美大島で赤痢になった部下を預けるなどした後、基地に到着して終わる。

奥野健男(解説)によれば、この小説は昭和54年から60年まで「新潮」に掲載された。戦後40年近くたつまでこの時期のことは書かれていなかった。1964年「出発は遂に訪れず」の後記で作者は「そのあとさきのことも」書けないでいると告白している。それにしては緻密な構成と詳細にわたる記述は、鮮烈な記憶が作家の心に強く残っていることを示す。

ただ、奥野が述べるような意味で、この小説が「戦争小説」と呼ばれるべきかというと違うように感じる。われわれが思い浮かべる戦争小説とは、より人道主義的で人命尊重的であり、究極の部隊としての戦場でぎりぎりの選択をするような状況を使って戦争の無意味さや悲しさ、悲惨さを示そうとする。しかし、島尾敏雄の戦争小説は趣旨が違う。死を覚悟した、といいながら、小説の焦点は常にどこにでもある違和感にある。それを伝えたいのだと言いたげだ。

逆に、戦争というものが実に日常的に受け容れられた自分を後になって奇妙だと思っているようにも解釈できる。たぶん普通の軍国少年であった島尾が、どちらかといえば普通の生活や世間に出ないままそれに違和感を持って志願した。しかし、そこにもやはり世間があったり、一歩杖軍隊独自の奇妙な感覚、さらに「死」の側に立った特攻隊員としての奇妙に許されたことがらがある。島尾は戦争を描き、究極の特攻経験を描きながら、実は芝居を演じている自分を見るような視点を読者に提供している。

これは夏目漱石が「坑夫」で描いた「自殺しようとする自分が、蝿がたかった饅頭をいやがることに、我ながら奇妙だと思う」感覚と似ている。戦争が日常として受け容れられ、その中である程度優秀な成績を収め、全体的に駆逐されたり自分の居場所をなくしたりもしない。それどころか、将校としてよい目にもあう。

島尾の世界の恐ろしさは、何が違和感のもとにあるのか分からないことにある。そうだとすれば、人間が構成する国家、それが指導する戦争、殺人組織としての軍人、軍人の手柄と栄光、死の高い確率、肉体的訓練と「考え悩むこと」の限定、このような主題が全体を覆っているとみることもできる。それはまるで自分が学生として持ったであろう友人関係や、親子兄弟、さらには世間全体との関係と対置されている。どちらかがより幸せであるとかではなく、類似の違和感でしかない。社会にうまく適応していながら、常に感じ続ける「そうではないだろう」という違和。ひとりの人間が軍人でありながら詩人にもなれるという現実。その中での自分の選択の積み上げとその結果との違和感。

戦争の無いいまの日本においても、学生としてであれ労働者であれ日常に感じる違和感の積み重ねが、特攻要員においてすらあるということが恐ろしい。人間が死を含めて環境を受け容れることは実に簡単で、批判することも無く、まったく異なる違和感に苦しんだり生きること自体を感じたりする。

それは自己の揺らぎでもある。自分が絶望したわけでもないのに死を受け容れる。それを受け容れる瞬間は意外に瑣末でしかない。肉体が失われれば何もなくなるかもしれない。それでも自分の存在は、いまだつまらない日常の中にこそ見出すことができる。結局、人は人との関係の中に生きていて、崇高な個として生きているのではない。そのような方向からこそ島尾は命を見ている。

島尾敏雄「島の果て」を読んだ(NK)


島尾敏雄「島の果て」ちくま日本文学全集

昭和23年1月の作品。「むかし、世界中が戦争をしていた頃のお話なのですが-」から始まる。「水雷艇学生」のようにドキュメンタリーに近い淡々とした語り口ではなく、メルヘン的にどこか遠いところで起こったことのように語る。島尾にとってはそれほど「最近」のことだったに違いない。「カゲロウ島」で、司令官は「頭目」と呼ばれる。

朔中尉は違和感の塊で、島民の立場から書かれているとはいえ、やはりそこが主張の中心に見える。ひるあんどんの中尉は隼人(ハヤヒト)少尉との比較を常に問題にしている。軍人らしい、経験がある、てきぱきとしている、威厳がある、など。部下はこの副頭目に服従している。副頭目は心の中で朔中尉をすきではない、お酒を飲んだりしたときには、ちくりちくりとつつく。朔中尉が何を考えているのか誰にも分からない。

特攻を命令する「この世とも思われぬ非情な自分」。隊員の「ふう変わりな運命」。また、基地を抜け出して部落へ行く自分。トエは「朔中尉の世にも不思議な仕事を知ったときに」気が違いそうになった。そして自分が人間であることを悲しんだ。この意味では、トエという普通の人間の生活、感情を維持しようとしている側と、自分という異常な環境にいる側とは明確に対立・緊張関係にある。さらに、トエの一種の「愛の讃歌」の純粋な精神状態に対して、自分が「ほかの事を考えている」という違和感。戦争への違和感や非人道への怒りなどまったく最初からない。自分はちょっとふう変わりかもしれないが、普通から見れば非情かもしれないが、と思いながら(そういう風に思う自分に違和感を持ちながら)、それ自体は拒否も否定もしない。

朔中尉の危機は、隊員や隼人少尉との感覚のズレやコミュニケーションのズレのほうによほど大きく存在している。戦争や特攻の違和感をすでに受け容れて「あちら側」にいる自分が、生きる側と接したことがこの小説のひとつのモチーフといえるが、生きたいとかこちら側に戻りたいという叫びなどまったくない。トエははじめから置いていかれるに決まっている。まったくのすれ違いであること自体が、読者の違和感となって残るように仕掛けられる。トエの危機は小説の最後で「ひとまず」通り過ぎたということになるが、朔中尉の違和感は「出発は遂に訪れず」に続くことになる。

あらすじとして描くほどのストーリーは無く、隊長の軍隊生活での小さな違和感、部落の娘との出会い、さまざまな小さな対立とズレ。そして最後に特攻に出発しないことによるトエの救い、が描かれる。